“こころ”とは?-西洋の捉え方と東洋の捉え方-
ホロニカル・アプローチから生まれたホロニカル心理学では、“こころ”とは、東洋の思想や哲学でいうところの「絶対無」、仏教のいうところの「空」と考えます。
現在、日本の臨床心理学は、西洋から輸入されたものが多く、個を中心とした「意識」「無意識」「行動」「認知」に“こころ”の作用をみます。「個」の確立を重視する視点が“こころ”の研究の起点となっているわけです。そのため、心理学の基本的姿勢は、観察する私(自我)が、自己や世界を観察対象とすることからスタートします。この時、しっかりと自己と世界の間に境界線を引けるようなることが個には求められます。
ところが、たとえ個が確立したところで、観察対象となる“こころ”は、自己と世界の関係をめぐって千体万丈のあらわれ方をします。そのため心理臨床も得意とする対象を、行動、認知・思考、情動・感情、体験過程、イメージ、夢、トラウマ、対人関係、家族、コミュニティ、高次の精神性と区別するため、心理臨床の理論や技法の現状は、実は百家争鳴状態となってしまっています。
これに対して東洋の思想や哲学では、“こころ”も万物も、すべて「空」と捉えます。「空」といっても、何も無い、空虚な虚無の世界という意味ではありません。物事には、何も普遍的な本質や、実体のようなものはないという意味です。無自性といいます。事物に、本質や実体があると錯覚するのは、観察する私(我)が観察される対象(自己と世界)を、山、川、草、木、国・・というように、あたかもそこにそれぞれが独自の本質をもった実体があると識別しているからに過ぎないと説きます。
しかも、すべての出来事は、あるがままに見れば、山、川、草、国のどれをとっても、それだけで存在している物など一切なく、すべては縁によって成りたっており、識別されるものなど本来無くひとつだというわけです。そして、ついに、識別の主体としての個(我)もすら無いとし、無我を重視します。
正確には、本来、「絶対無」「空」と論ずべき、「絶対無」「空」すら無い。だけど、「絶対無」「空」というゼロ・ポイントの中に無尽に含まれていたものを、人が重々無尽に識別するため、識別されたもの同士があたかも編目のような多様な世界となって立ち顕われているように見えるだけだと説いているのです。
しかも、仏教の「般若心経」や「唯識」では、「空」こそが、“こころ”とはっきりと捉えているのです。
このように、西洋の個我を重視した“こころ”の捉え方と、東洋の無我を重視した「空」の“こころ”の捉え方では、パラダイムが全く異なるのです。