西洋思想では、「私」という「自我」の確立を重視します。またそうした考え方を土台にもつ西洋の心理学を積極的に取り入れた日本の心理学においても「自我」を重視します。主体的な自我を確立することが個として成人する条件というわけです。自我が主体となって、客観的な対象である自然や社会をしっかりと自己責任下で自己コントロールすることが大人として重視されたわけです。ここには知らずのうちに、しっかりと主客分離の二元論的世界観を取り入れていることになります。
しかしながら日本の思想においては、むしろ「私」を無化すること、「無我」となって主客一体化や自然との一体化を重視してきました。主語抜きの会話や文章や和歌・俳句などには、そうした日本文化の特徴が明らかにみられます。
しかし、西洋的な主客二分的二元論の思想も、人が何かを経験した瞬間の刹那、すなわち主客が二分化する前の純粋経験(西田幾多郎)の直接経験まで立ち戻れば、主客一体の「我」がまだ意識されておらず、無化されたままの状態での直接体験のみと考えられます。しかしまさに主体が意識した瞬間、意識する主体と意識の対象となった客体とに二岐するといえます。ホロニカル心理学では、物事が真に実在する世界とは、本来、主客が切断される前の直接体験と考え、二岐後は、観察主体によって構成された対象世界と考えます。
ホロニカル心理学でいう直接体験は、自己と世界の不一致・一致の出あいによって自己自身に体性感覚的に体感されます。そして自己と世界が不一致・一致という現象があるということは、自己と世界の現象が起きる場がなくてはなりません。ある場において自己と世界の出あいの直接体験が真実在として生起し、直接体験が意識された瞬間の意識する主体となる意識された客体としての世界が生起するといえるのです。
しかし、ほとんどの人は、場を忘却してしまっています。特に、「我」という意識に目覚める主体にとっては、自らに死でも迫ってこないと、自己と世界がおいてある場のことを忘れてしまうものです。
人類の歩みは、ある意味で、「場」の隠蔽を必死に図ってきた歴史ともいえます。自我の確立を重視した近代科学や近代思想は、まだにかつて圧倒的な霊性的力すらもっていた場を隠蔽することによってこれまで成り立ってきたといえるからです。