直接体験は、内的世界と外的世界をつなぐ架け橋です。
直接体験そのものは、西田哲学でいうところの行為的直観的なもので、認識と行為が不可分一体となっているものです。
自己と世界の不一致・一致の出あいによっておきる非言語的なものであり、情動的なものを含む身体が直覚する感覚運動的な“ゆらぎ”のことです。
不一致・一致の“ゆらぎ”は、様々な形で顕れます。それはとても微細な仕草、視線、動作、情動や身体的な感覚などを通して顕れるのです。認識とか言語化と言われるものは、もっと行為的直観のあとの出来事です。
心理社会的支援においては、言語化されたものだけではなく、もっと非言語的な直接体験レベルに注目する必要があります。言葉にされた表面的な内容以上のものが、言葉を発する以前の直接体験に無限に包含されているからです。
被支援者が、拳を握りながら目に涙をためて「許せない」と低い声で呟く時、しっかりとそのプロセスに付き添っていくと、怒りの気持ちを表出しているだけはなく、その握り拳は、激情に流されることで自分も相手と同じような畜生になり下がってしまうことを必死にこらえようとしている姿でもあったり、涙も、悔し涙だけではなく、あまりに惨めな自分への悲しみの涙でもあったりすることが明らかになってくるのです。
直接体験は、実に複雑なものといえます。直接体験の出来事に簡単に言葉で名を与えることは、名を与えた途端、何かを失ってしまっている可能性すらあるのです。
よく心理学では自己一致を大切にするといいますが、本来自己一致とは、簡単には言葉にできない不一致を含む複雑な直接体験そのものを実感・自覚することにあるといえるのです。不一致なき自己一致は幻想といえます。しかしながら不思議なもので、不一致・一致の無限の繰り返しの直接体験への自己一致は、適切な自己の自己組織化を促進することができるのです。自然治癒とは、不一致・一致の中で、一致に向かって自己が自己組織化することといえるのです。