ホロニカル心理学における自己意識の発達:第一段階から第二段階への移行

自己意識の発達の第一段階は、自己も世界もそれぞれ明確な境界をまだまだ持たず、断片的な非連続的な塊の集合のような出来事だけが展開する段階といえます。自己意識の発達の第一段階では、断片的出来事や塊の集合の認識する主体は存在せず、集合も統合的なまとまりとしては意識すらされていません。自己も世界も意識されず、瞬間・瞬間、ある出来事が色鮮やかな光となって顕れては、再び漆黒の闇に消えるだけの段階といえます。

しかし、光の生成と消滅の繰り返しのような出来事に対して、次第に身体的自己が不快な気分を伴う出来事のまとまりと快の気分を伴う出来事のまとまりを区別し始めます。そして同時に、何かが不快感をもたらすと意識する中心点に原初的なホロニカル主体(理)を内在化した内外融合的主体が結実してくると考えられます。とくに不快感をもたらす何かがあると意識されるようになってくると、意識する中心点に原初なるホロニカル主体(理)を内在化した内外融合的主体が結実してくると考えられます。自己意識の発達の第二段階です。

自己意識の発達の第二段階では、内的世界と外的世界の区分の境界が曖昧なままです(内外融合的主体)が、内的世界と外的世界の不一致に伴う瞬間に、何かがそこにあるという志向性を持った意識が創発されてくるのです。

意識とは、内的世界と外的世界、自己と世界、意識と無意識の混淆状態のフィールドの中からこのフィールドに「名もなき何かが存在するという志向作用」といえます。

したがって、意識が生まれる前は、存在するものを意識するものがない以上、そこに何かを識別することのできる本質のような存在もあるとはいえず、井筒俊彦のいう「存在と意識のゼロポイント」となります。哲学用語に換言すれば「絶対無」、仏教用語に換言すれば「空」に相当すると考えます。

何かがそこにあるとは、他と区別できる本質を持った存在に対する意識といえます。しかし、何かに対する意識といっても、第二段階は言語による識別されるような具象的な名を持つ以前の、感覚運動と結びついた前言語的なイマージュといえます。これは、ユング心理学の「元型」や井筒俊彦の「言語アラヤ識」に相当すると考えられます。

<参考文献>
意識と本質,井筒俊彦(1991年),岩波書店.