
文化は,その時代、社会、世代特有の言語体系を持っています。
言語は、自己と出あいの直接体験を観察対象として認識するときの範疇や価値体系を決めます。範疇とは、同一の性質を持つものを分類する時の枠組みのことです。カテゴリーと同義語です。犬という言語は、無限にある観察対象から、犬という概念によって他の識別されるカテゴリーといえるのです。
したがって同じ犬でも文化が異なると、犬のイメージも微妙に異なってきます。民族Aでは、犬は狩猟を共にする仲間のような存在です。しかし民族Bでは、ペットです。世界は広く、民族Cでは食料の意味を持ちます。
自然科学の辞典で定義しようとする犬は、できるだけ文化の影響を排除し、科学的な一般性・普遍性を追求した上での犬の定義をしようとします。しかし、そうした同じ犬でも社会文化の観点を導入した途端、まったく価値付けの体系も異なってきます。
ホロニカル心理学では、こうした識別基準や価値の体系の理を総称して「ホロニカル主体(理)」と呼んでいます。
ホロニカル主体(理)は、知らずのうちに自己内に「当たり前」「常識」という感覚として刷り込まれ、それぞれの文化やその人固有の自己観や世界観の形成を創りあげていきます。
その結果、時間あたりの効率性や質の高さに価値をおき、そのためには迅速でかつ効率的な判断を瞬時に求めるようなホロニカル主体(理)を内在化している人や社会と、自然の流れに身を任せながらゆったりと生きることに価値を置くホロニカル主体(理)を内在化した人や社会では、全く異なる世界に生きていることになります。
学歴に価値をおくホロニカル主体(理)を内在化した人や社会と、生活力に価値を置くホロニカル主体(理)を内在化した人と社会では、全く異なる世界に人が生きていることになります。
インターネットによって、一瞬にして異文化に遭遇することになる現代社会は、異なるホロニカル主体(理)が錯綜している喧騒社会といえます。価値体系の異なる人と社会が混在する混沌社会です。
異文化性は、もはや民族毎に異なる言語を使うレベルを超え、同じ言語を使っていても、もはや異なる自己観や世界観の異なる世界にお互いが生きている時代に突入しているといえます。
こうしてお互いの間柄が、お互いに相手のことを非常識とか話の通じない人と感じやすくなってきている時代になってきたといえます。みんな非常識、みんな変人という関係が常態化してきた時代といえます。
現代社会の対人関係上のストレスの高さは、それぞれの人が内在化しているホロニカル主体(理)の差異からくるといえるのです。
それだけに、ホロニカル主体(理)の異なる者同士の対話には,お互いが対話の瞬間ごとの新たなホロニカル主体(理)を創造することを可能とするような場が必要になってきているといえます。そうでなければ、どのホロニカル主体(理)が正しいかを巡る激しい対立を避けることができないのも現実といえます。
またそうした対話を可能とする場は、異なる感覚や意見を表出しても安全で安心でき、不一致の不確実性をむしろ楽しめるような場であることが求められはじめていると思われるのです。