
「客観的に・・・」という説明を受けたとき、人は一般的に、その判断は主観的判断を一切排除して、観察対象を外部の視点から冷静に観察したと思います。しかし、実際には、人は、観察対象を世界の外から観察することはできません。客観的と思っていても、観察対象そのものではなく、世界の出来事のある一部の側面を切り取って観察しています。
ある出来事を固定カメラを使って映像記録にしたとします。このとき、固定カメラの位置をどこに据えるかによって、記録された映像から受ける印象はまったく異なってきます。ゲバ棒をもったデモ隊と警棒と盾をもった機動隊が激しくぶつかり合ったときを例にとります。カメラの位置を機動隊からデモ隊をとった場合と、デモ隊から機動隊をとった場合と、空からとった撮影した場合では、まったく異なる印象を与えてしまうのです。
観察者の視座が異なると異なる観察結果をもたらし、異なるストーリーを創り出すことができるのです。
もっと身近な例でいえば、次のようになります。同じ部屋から同じ雲の流れを、数人の人で同時に観察します。観察後、「何が見えたか」と質問してみるだけで、人の視点の違いがすぐわかります。「ゆったりとした雲」と語る人もいれば、「無常」と詩人的感想を語る人がいれば、「水蒸気の集まりを見た」と科学的視点で語る人がでてくるのです。
観察するとは、必ず観察する人自身の主観的関心が絡み合って観察対象を見ているといえます。観察主体は、外部性を担保できず必ず内部性を帯びるのです。
観察主体が客観的観点を維持することができないことを理解した上で、それでも出来事をありのままに観察しようとするならば、観察主体と観察対象のあらゆる組み合わせをさらに観察していく姿勢が必要になります。先ほどのデモ隊と機動隊の衝突の比喩でいうならば、機動隊の立場から、デモ隊の立場から、空の立場からだけではなく、その場で打ち上げたロケットの立場からと自由自在の視点から観察し、すべてうぃ統合的に理解していこうとすると視点です。
逆に、デモ隊のひとりの身体の中に向かって観察することもできます。皮膚、細胞、分子、原子・・・量子といったようにです。
ホロニカル心理学では、ミクロからマクロに向かって自在かつ無限に観察する行為を、「自由無礙の俯瞰」と呼んでいます。「自由無礙の俯瞰」とは、観察主体と観察対象の関係を固定させない俯瞰といえます。「自由無礙の俯瞰」が、もっとも客観性に近いと考えています。