時計に縛られる時間感覚:社会と文化の影響

AIで作成

時計のような時間感覚(線形時間、リニア・タイム)は、自然に身についているものではなく、社会・文化的に学習されたものと考えられます。したがって、時計が普及していなかった時代や、タイム・スケジュール通りに物事が進まない社会にあっては、時計通りに事を運ぶことが当然と思い込んでいる現代日本人の時間感覚とは異なります。

30年以上前に、バリ島の現地ガイド案内で、ガイドの故郷である海辺の村に遊びに行ったことがあります。数時間かけて午後2時過ぎ頃に村に着きましたが、みんな海辺の木陰で、サンダルを履いたり素足のままで横一列に並んで談笑していて、まったく働こうとしません。働いている人といえば、せいぜいアイスキャンディを売る人がいる位でした。

日本語が堪能なガイドに尋ねました。「なぜ、もう午後2時を過ぎているのに、みんな働こうとしないの?」と。すると彼の返事は次のようなものでした。「みんなこの時間をとても楽しみにして、シャランジャラン(インドネシア語、散歩する。ブラブラするというような意味)しています。だってまだ暑いじゃないですか。なぜ、こんな暑い時に働かなくちゃいけないのですか? こんな暑い時も働くべきと思う日本人はちょっとおかしいのでは?」と。よく見てみれば、ほとんどの人は腕時計などを持たず、日差しとの関係で仕事のペースを決めていました。しかも談笑の内容の通訳を求めると、わずかな仕事やお金をどのように分け合うかという話であったり、隣の島で、サッカーの試合結果をめぐって軍隊と警官がもめて、撃ち合いになってかなりの人が死んだらしいという事件の話をしているということでした。

私たち日本人とは、時間感覚だけでなく、生きている世界の安全感覚も、まったく異なっているという衝撃の出来事でした。

私が日本人として、知らずのうちに時が金なりの経済優先の社会に生きていることを痛感させられた出来事でした。

ホロニカル心理学では、内的現実主体は、自然のリズムや生命活動の流転に共鳴する時間の流れを感じ取っていると考えています。それに対して、自己意識の発達が進んだ外的現実主体は、外我が内在化した社会規範としての時間を意識しながら生きていると考えています。後者は集団社会生活に適応するために学習した時間感覚です。大人は子どもに対して、時間を守るという社会性を身につけさせようとします。内的現実主体による時間感覚では、迅速で効率的で合理的な生産性を重視する社会ではトラブルを引き起こすと考えるからです。こうして内的現実主体の時間感覚に生きていた子どもも、次第に外的現実主体が内在化した社会的時間に生きるようになっていくわけです。

しかも外我による時間と内的現実主体による時間は、時代、民族、発達年齢によって異なります。世界標準時間の浸透は、人間が、内我の時間を忘れ、外我の時間が優位になっていくことを意味すると考えられるわけです。