「それ」と「直接体験」、そして「こころ」の関係

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それ(sore)」とは、「自由無礙に見るもの『IT』であるとともに、無限に見られるもの『エス(es)』のこと」です。

これまでのホロニカル心理学の論考では、当初は「それ」が前者の意味だけで論考され、「エス」の働きを十分に捉えきれていませんでした。その後、「それ」は「エス」を含むニュアンスであることに気づいてきましたが、「それ」と「IT」と「エス」の語源の差異に基づく整理が不十分でした。しかし、言詮不及の働きを日本語の「それ」とすることで、「それ」には、「IT」と「エス」の両儀性が含まれると論理的に整理することができます。

「IT」は全総覧的作用であり、一切合切の統合化を司ります。「IT」に対して「エス」は、創造と破壊を司るエネルギーであり、多様化・分節化の源として生成と消滅を司ります。「それ」は、「IT」と「エス」という相矛盾する働きを同時に司っているわけです。

「それ」とは、「見るもの(IT)」であり、「見られるもの(エス)」でもあるのです。「見るものが見られるもの」とは、西田幾多郎の「善の研究」から引用すれば、「真に経験其儘の状態」、「色を見、音を聞く刹那、まだ主もなく客もない」、「純粋経験」に当たります。ホロニカル心理学では、自己と世界の出会い不一致・一致が展開する場所としての「直接体験」に相当します。「直接体験」こそが、分析、判断や内省に先立つ、疑いなき「実在」するものです。なお、「直接体験」を対象として分析したり判断したり内省するときに知られる直接体験とは、一般的には「経験」と言われます。しかし、一般的に言われる「経験」とは、自己と世界が不一致になったときに自己が観察主体となって直接体験を観察対象として再構成された体験を意味し、分析・判断・内省前の実在する生々しい直接体験とは区別することが大切です。

筆者の理解では、西田幾多郎は「善の研究」の「純粋経験」の立場の哲学的論考を徹底的に深めていく中で、「純粋経験」が「我が自覚」するという心理的な判断や内省の立場ではなく、それ以前であることを考究していきます。そして、「自覚に於ける直観と反省」を発表し、(自己)の純粋経験自身が自覚するという意味と理解される「自覚」の立場を明らかにします。しかし、やがて「自覚」も「場所のうちにそれ自身を映す」という「場所」と「場所的自己」の関係を明らかにしていきます。なお、禅体験を深めている西田は、すべてが於いてある場所とは、有無を含むすべてが於いてあるであり、「絶対無」であるとしています。

西田哲学をホロニカル心理学によって脱構築すれば、絶対無の場に於いて、「それ」の「IT」と「エス」の働きによって、場所(世界)と場所を自己に映す場所的自己が自己組織化されると考えられます。こうして場所に於いてある場所的自己は、有無を含む絶対無を映す「場所的存在」であり、「自由無碍に見るもの『IT』であり、同時に無限に見られるもの『エス』」のことです。見るものが見られるもの」を無限に実感・自覚する「IT」「エス」の働きによって司られています。

「場所的自己」の実感・自覚から自己意識の発達を研究するホロニカル心理学の立場は、主客の区分を前提とする我の意識(主観)の立場の心理学とは異なります。ホロニカル心理学の立場から厳密に論じれば、観察主体と観察対象が不一致の時の直接体験をホロニカル心理学が扱う時が、我の意識(主観)を扱うときになりますが、ホロニカル心理学では、観察主体と観察対象が一致し、「色を見、音を聞く刹那、まだ主もなく客もない」瞬間の直接体験も扱うという意味で、前者のみの心理学とはパラダイムが異なります。

なお、東洋思想や東洋哲学の影響を受けているホロニカル心理学では、有無を含む一切合切が展開する絶対無(=空)の場こそが、“こころ”と考えています。“こころ”とは、すべてが於いてある場のことです。ホロニカル心理学の“こころ”とは、観察主体や観察対象という意識すら生み出すものと考えており、一般的に考えられている「無意識を含む自己意識」より広く、物理現象及び意識現象が起きる場そのものと捉えています。