
私たちが日常的に理解している「世界」とは、実のところ、言葉や概念によって再構成された創作的な世界といえます。言語化される以前に直接的に与えられている生の体験世界を、知的な枠組みによって再編したものが、私たちの「理解」している世界といえるのです。
かつては絶対的なものと信じられていた「時間」や「空間」も、アインシュタインの相対性理論によって、観察者の運動に依存する相対的な概念であることが明らかになりました。時間や空間は、観察者とは無関係に存在しているのではなく、人間の知的働きによって作られた概念だったといえるのです。
現代物理学、とりわけ量子論や場理論が描き出す世界像は、むしろ東洋の瞑想実践や哲学的直観に近づいてきているようにも思われます。そこでは、時間や空間は固定された枠組みではなく、むしろ“ない”ものとして理解されることもあるのです。
このことは、西田幾多郎が語った「物となって見、物となって行う」という言葉にも通じるでしょう。自己と世界の境界がまだ確立されていない、言葉以前の体験の場において、私たちはあるがままのリアリティに触れているのかもしれません。それは、「我(われ)」の意識が消えたときに立ち現れる、純粋な経験の世界です。
このような視点から見れば、「究極のリアリティ」とは、現代物理学が描く“量子の場”に似た存在であり、東洋思想における「空(くう)」や「絶対無」と呼ばれる統一的な場に重なるものと考えることもできるでしょう。
ホロニカル心理学では、この「空」や「絶対無」あるいは「量子の場」とも言える根源的な場こそが“こころ”、という仮説を立てています。この場は、あらゆる創造の源泉として、私たちの内的世界と外的世界をつなぐ場でもあります。
いずれにせよ、こうした究極のリアリティは、単なる知的理解や合理的分析では捉えきれないものです。それは、言葉の背後にある沈黙の次元、そして私たちの存在の最も深い場所において、かすかに感じ取られるものと思われるのです。