哲学者の西田幾多郎は、晩年に絶対的なるものをめぐり、「絶対無の場所」という宗教的意識ともいえる自覚をすべの根源的根拠として語り始めました。このとき、西田の後継者とみなされていた田辺元は、雑誌「哲学研究」(1930年)に「西田先生の教を仰ぐ」を発表し、表題の慇懃さとは裏腹に痛烈な批判を行いました。田辺の批判のポイントは、根源的なるものを探究する哲学が「絶対無の場所」といった宗教論的な発出論では哲学そのものを否定するのではないかという点でした。
哲学者の藤田正勝は、田辺の批判の趣旨を次のようにまとめています。「そのように絶対的な存在を前提とすることは哲学の否定に結びつくにではないか、絶対的なものを立てるとしても、哲学としては、『与えられたもの』としてではなく、どこまでも『求められるもの」として、言いかえれば要請される理念として立てるべきではないか、ということを田辺は主張したのである」(藤田、2007)。
「絶対無」のような絶対的なるものを扱うときの論争は、絶対的なるものを扱う論拠を争うものになるだけに熾烈な争いになったと思われます。
絶対無をめぐる論争を考慮するとき、ホロニカル心理学が哲学でいう「絶対無」や仏教でいう「空(くう)」を“こころ”とする根拠について考察するとき、次のように捉えることができます。「求め続ける中で、無限に与えられるものとして“こころ”の働きがあり、それが哲学でいう『絶対無』や仏教でいう『空(くう)』に相当する」と考えられます。
重要なポイントは、学術的な学問だけでなく、人生の実践に寄与する心理学を追求する限り、「“こころ”のことを考えるだけではなく、“こころ”から与えられる叡智を学ぶ」という姿勢を堅持することです。
<参考文献>
藤田正勝,2007.西田幾多郎:生きることと哲学.岩波書店.p111.