
日本語は、欧米の言語に比べて、主語となる私(我)の存在を曖昧にし、むしろ自然法爾の考え方に象徴されるように、場の働きに身を任せるような述語的境地を希求する文化を長く維持してきたと言えます。
齢70歳を超えた私の幼少期を振り返っても、「私の意見」を強く主張する人の言動は、「我が強い人」として否定的に見られ、「もっと場をわきまえた発言を心掛けなさい」と注意されることがありました。私自身も、自分の意見を主張すると、大人たちから叱られ、何がいけなかったのかわからず、ただ恥ずかしい思いが残りました。しかし、今振り返ると、当時の自分の言動が本当に恥ずかしいと思う必要があったのか疑問に感じます。
時代が進むにつれ、特に若い世代の中で、「私」という存在を意識した言動が自然になってきたように思われます。個人意識を強く自己主張する人が増えた一方で、この新しい社会的潮流が歴史的必然なのか、それとも欧米流の人権思想や社会文化との接触による意識変容なのかを見極める必要があります。
場を個人より重視する社会文化と、個人を場より重視する社会文化のどちらに親和性があるかで、その人の主語-述語関係が異なると考えられます。
また、主語-述語関係は、高度情報化社会の到来によって、世界中の多文化が同時に情報として飛び交うことで、より錯綜してきています。主語となる意識の表層レベルでは、一見、協調的な対話が成立したにもかかわらず、ホロニカル心理学が言う家族的無意識層、地域社会的無意識層、民族的無意識層レベルなど集団的無意識レベルの述語表現の違いをめぐっては、ちょっとした差違が、とても激しい対立関係に変貌してしまうことも増えてきたように思われます。
また、たとえ同じ人にあっても、社会的な場が異なると、個人の権利を尊重する立場から、急に集団的無意識レベルの常識をめぐる感覚の差違に触れて排他的言動に変貌することもあります。価値の多元化や異文化の錯綜する時代においては、同じ人にあっても社会的な場が異なると異なる面が立ち顕れてくる時代になってきたといえます。
こうして価値の多元化・多様化は、内的世界や外的世界の錯綜化現象となって現代社会に生きる人々を揺さぶり続けてきます。そのため、誰もが内的世界や外的世界における錯綜化現象が、一体どのように展開していくのかを、自らが自らの主語と述語関係の展開の収まりどころをしっかりと見定めていくことが、新しい生き方の地平を開くために大切になってきたといえます。