現代社会は、人と人、人と自然、人と世界との関係が、疎隔化し、異質化し、ますます断絶的なものになっているように思われます。また価値の多様化や機能的社会の増長は、理性や知性でもって物事を分析し分類化する思考優位型(外我優位)の社会をもたらしています。
しかし思考優位は、案外各自独自の物差しや自己基準(ホロニカル主体:理)で行うためお互いの共通性をかえってみつけにくくしています。こうした思考優位の語り合いだけでは、一層、異質性が目立つばかりで、むしろ共通性を見出しにくくなってきています。言葉でいくら話し合っても、“こころ”の奥や身体感覚的にはいつもどこかで違和感がつきまといがちになってしまうのです。
人と人、人と自然、人と世界のつながりは、いくら知的に理解しようとしても、生身の自分(身体的自己)が実感しないことには意味をもちません。つながりとは、言葉とは別の次元で、自己の身体感覚の直接体験として、人・自然や・世界とのつながりをふれていると実感する体験世界の話なのです。
昔は、村に時を告げる寺の鐘の音に、村人は一瞬のうちに同じ共通体験の時空間を共有していたと思われます。運命共同体的生活の場が、人々に「同じ世間」をもたらしていたのです。日頃から、「鐘の音」を共有するような生活感覚が、人と人の間の根底にあって、人と人、人と自然、人と世界をしっかりとつないでいたのでしょう。
しかし、今や、運命共同体的生活社会は、基盤から変容してきています。こうした社会変容の中で、人はどのようにして、つながりを希求しようとするのか、誰もが気がかりなってきているのです。
ラインやツイッターに夢中になり出した人の話を聴いていますと、ブログやメールなどでは、表現した書き言葉が、実際にどのように受け取られるかとても神経をつかわざるを得ないけど、呟き的語りならば、即レス、即時性において、井戸端会議的な気分が共有ができて、とても楽だと語る人がいます。
こうした社会現象をみていると、人と人の直接体験レベルでのつながりが持ちにくくなった時代の変化の中で、みんな誰かと無性に語り合いたくなってきているのかも知れません。ふと、周囲を見渡した時、隣近所の世間の人のいない暮らしになりつつある現代人にとっては、すぐに応答してくるラインやツイッターの世界こそ、「新しい世間」になりつつあるのかも知れません。しかしながら、そうした新しい流れそのものももはや疲れたと感じる人たちすら最近は登場しはじめています。
どうやら大切なことは、お互いの違和感をお互いが大切にしあいながら抱え込みあっていくことではないでしょうか。