「私」と「自己」


「私」とか、「自己」という言葉に、人は、いろいろと異なるイメージを抱いているものですが、ホロニカル・アプローチでは、次のように整理しています。

「私が自分自身について語る」という場合を例にとって、このテーマを整理してみます。この表現には、まず主語的に使われる「私」に対して、述語的に使われる「自分自身」という2つの私があることにすぐに気づきます。この時、前者の自分を、「」とし、観察対象となる自分自身を「自己」と考えます。すると、「私が観察主体」となって、「観察対象としての自己」について語るということになります。主語としての「私」が、「自己」について述語的に語るということになります。

「私」は、「自己」がなくては存在すらできません。しかし、述語的な対象となる「自己」は、「私」というのが成立して、はじめて実感・自覚される存在でもあります。このことは、赤ん坊を考えてみればわかります。「私」という自覚が育っていない赤ん坊は、まだまだ自己と世界の境界すら混沌としているといえます。自己と世界を実感・自覚する私が、まだ未成立だからです。しかし、次第に、成長とともに、自己と非自己(他者や世界)を自覚する「私」が育ってきます。そのうちその私は、自分に「名」があることも実感・自覚するようになります。「私」が成立してはじめて、自己と世界が意識の上に区別されて自覚されるようになるといえます。動物も自己があるといえます。しかし、自己があると実感・自覚する主体としての私が、人間のようには無いといえます。

実は、「私」と「自己」の関係が、上手くいかないと、“こころ”が不調をきたします。私にとっては、自己とか世界の存在がうとましくなったり、否定的に思えてきます。私と自己や世界との境界が曖昧になることもあります。境界が曖昧になると、自分の思ったことと世界で起きていることの区別がわからなくなります。自己を否定した私が暴走することがあります。逆に自己だけが私を無視して暴走することもあります。

こうしてみると、どうやら私と自己と世界との適切な関係を作り上げることが大切といえます。

「私」は、「自己」があって、はじめて成立するものです。しかし、人は成長するともに、「私」の方が、「自己」を忘れ、「私がすべて」のような錯覚をもちがちです。自分なんて生きている価値がないと、自己の存在に否定的になってしまうのも、「自己」ではなく「私」の方といえます。自己の方は、考え込んでしまう私の存在に関係なく、生身の自然な生命的存在として、ただひたすら死ぬまでけなげに生きようとしている存在といえます。

このテーマは、西田哲学中期の中心的な概念の一つで「場所の論理」と密接な関係があります。西田幾多郎は、包摂判斷で、述語である「場所」が、主語である「(場所に)於いてあるあるもの」を包み込む関係に成ってるため、述語が主語より優位に立つとみなす考え方を明らかにしています。

破壊衝動の増える現代社会とは、ひょっとすると、「自己」より、「私」という主語の論理の暴走社会と、自分(我)がすべてと錯覚してしまうことが影響しているといえるかも知れません。もっと自然な存在として生きている述語の論理をもつ「自己」のことを大切にできる「私」になりたいものです。