最近の精神医学の過剰診断の問題

人格をもった人間の言動を、DSM(精神障害の診断と統計マニュアル:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, DSM)ICD(疾病及び関連保健問題の国際統計分類:International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)などの精神疾患の分類と診断基準から診(み)る立場にある専門家は、あらゆる言動を、症状や問題行動という観点のみから判断する傾向にあります。しかし精神疾患の原因を特定する生物学的検査(バイオマーカー)は、まだ明らかになっていません。それだけに、かつてはとても慎重に確定診断が下されていました。ところが、最近では、人の一生に大きな影響を与えることになる精神障害に関する医学的診断が、診察室でのごく限られた時間内でのDSMやICDの診断基準による機械的な型ハメによる鑑別や簡易検査でもって判断する医療機関が目立つようになりました。本来、医学的診断には、診断の根拠となるような生物学的な検査所見が必要です。このことは、発達障害やうつや統合失調症の診断でも同じです。しかし、そうしたバイオマーカーが未確定の中、診断の補助手段として、「その傾向」をみることのできる簡易検査と、ごく短時間の診察だけでもってして確定的診断を下す行為に、とてもエビデンスがあるとは思えません。せめて、もっと時間をかけ、総合的観点から医学的診断をする配慮を望むところです。

根拠になるような生物学的な所見がまだ確定していないのは、発達障害に限らず、うつや統合失調症についても同じです。これらの障害の傾向を見極めようとする記入式の検査がありますが、ほとんどは専門家の間で標準化された主観的尺度が判断基準となっています。この先、精神医学が医学としてのエビデンスを主張するならば、もっと神経・生物科学的な一般性をもった科学的根拠による医学的診断の精密度を高めることが期待されます。また、その一方では、もっと医学的な診断や治要以外の多層多次元な多角的観点や総合的観点から、その人の抱えている生きづらさの問題を検討すべきです。ホロニカル心理学の立場は、そのいずれも重要と考える立場です。

必要に応じた除外診断や鑑別診断のための検査や経過観察も実施しないばかりか、症状や問題行動が起きてくる心理社会的文脈やその意味の検討もなく機械的に行われる精神障害や発達障害に関する医学的診断は、すべての問題を個人病理化し、かつ過剰診断や過剰治療の危険性を否定できません。

次のようなことが起きています。ある人(大人)が、「自閉スペクトラム」とある医師によって診断されました。自閉スペクトラム的な現象が、確かにAさんBさんの前では見られます。しかし、Cさん、DさんEさんの前では、診断基準を満たす現象はほとんどなく、AさんBさんが、Cさん、Dさん、Eさんたちの助言を受けて、対応法を変えたら、AさんやBさんの前でも、診断基準を数ヶ月のうちに満たさなくなったという事例がありました。

一旦、診断を告知された人やその家族が、腑に落ちない場合の事例では事態はもっと深刻でした。子どもへの体罰や暴言・威圧を制御できない母親は、「大人のADHD」と診断されました。この母親は、その後、主治医以外の周囲の人に、「自分はADHDだから衝動性を止めれない。服薬しても治らない。医者に発達障害は一生治らないと言われた」と絶望していました。また多動で注意欠陥の行動をとる4歳の我が子がADHDと診断され母親は、「どうしたら治るか」と尋ねれる度に、主治医と臨床心理士から、「子どもの特性を理解してあげてください」と言われるばかりで、一体、どのように子どもに対応し、よき親子関係を形成していったらよいかの援助を受けることもなく、そのうちうつ状態になって、子どもの養育を放棄してしまいました。また、服薬後の体調不良を訴える子どもに、「医師の指示による服薬」を遵守しようとうする親と服薬に抵抗する子どもの間で、激しい親子対立が起き、もともと不十分だった愛着関係が、ますます悪化する事例もありました。

社会全般では、日に日に増加する発達障害児・者と診断された本人やその家族から、合理的配慮を求められ、そのあまりに多様な個別的対応への配慮への限界に苦悩する保育園・学校・大学・会社が増加しています。集団組織は、すぐには組織の体制や人の意識を変えることに困難が伴うのです。また中には、同じ診断名でも、あまりの差異に、過剰診断の可能性への強い疑念を抱く人も増えてきているのです。

根底には、異常と正常の区別を原則基準としてきた医療パラダイムによる個人病理モデルの影の問題が、社会中で露見してきた印象です。