“こころ”とは(16):無自性と“こころ”

ホロニカル心理学では、感じるという出来事そのものが、“こころ”の働きによると考えています。このとき、“こころ”とは、何者かが何かを感じることとは考えていません。

何者かが何かを感じるところに、“こころ”を捉える考え方は、何者か、すなわち意識する主体が対象として観察することのできる精神活動を“こころ”と考えています。こうした捉え方の背景には、心身を二元論的に区分する考え方が前提としてあります。身体と区分された身体を動かす精神に“こころ”の働きをみるわけです。個人の意識活動が“こころ”というわけです。

心身二元論的“こころ”の捉え方に対して、ホロニカル心理学では、“こころ”は出来事であり、出来事そのものが“こころ”の働きによると考えています。何者かが何かを感ずるという出来事すら包摂する出来事に、“こころ”が働いていると考えているわけです。個人の心身の活動に包摂されているとともに、個人を超えるところにも“こころ”の働きを見ているわけです。

といっても、“こころ”が、すべてを作りだしているという汎心論を主張しているのではありません。

何者かが何かを感じる出来事とは、ホロニカル心理学的には、ホロニカル的存在(※)が他のホロニカル的存在を感ずるという出来事と言い換えられます。存在といっても、何か本質的なもの、固有なものをもっているわけではありません。ホロニカル的存在は、仏教でいう無自性です。またホロニカル的存在は、アリストテレスのいう形相質料をもつ個物でもありません。他の生成消滅するホロニカル的存在との関係で、異なるホロニカル的存在が生成消滅を絶え間なく繰り返しているものです。絶えず変化し、一時とも同じことなどないといえるのです。

部分と全体の相互包摂的相互限定の働くところに“こころ”の働きによるホロニカル的存在の生成消滅が考えられます。“こころ”とは、すべてのホロニカル的存在が、相矛盾しながら一挙一切が生成消滅を絶えず繰り返しながら同時顕現するところに感じるものとしてあるのです。

ホロニカル心理学では、ホロニカル的存在のミクロの極限に量子的振る舞いをするものが考えられ、マクロの極限に全宇宙が考えられるのです。そして、ホロニカル的存在である人間は、多層多次元にわたって重々無尽に構成されるミクロの量子からマクロの全宇宙にわたる至るところに、“こころ”の働きを見いだすことができるわけです。

※ホロニカル的存在とは、部分として自律的に振る舞いながらも同時に他のすべてのホロニカル的存在との相互限定の中で、全体としても振る舞うところのものです。