多様性の行方

価値観の多様化・多元化社会が浸透しながらも人々が共生的に生きることを可能とする将来の社会にあっては、何らかのカテゴリーを基準にして、人をマジョリティー側かマイノリティー側かといったように単純に腑分けするパラダイムから抜け出していることが期待されます。

価値観が安定し、多くの人が、その価値観をあたかも常識であり普遍的と思い込んでいる社会にあっては、異常・疾病・障害は、正規分布する社会標準集団からの逸脱として扱われていました。標準を正常・健康・定型とする神話をもつ社会は、必ずマイノリティーを作りだしてきたといえます。しかし、男女のあり方、親子のあり方、家族と地縁社会とのあり方、地域社会と国家、国家と民族、民族と世界など、いろいろな関係において、標準という神話そのものが価値観の多様化・多元化の浸透によって曖昧になっていく歴史的変革期にあっては、標準からの逸脱という物差しによる判断というパラダイム自体の限界が到来していると思われます。一体、どこまでが正常でどこからが異常なのか、どこまでが健康でどこからが病気なのか、どこまでが定型でどこからが非定型なのかをカテゴリー的に分類しながら社会的に定義すること自体に困難が伴ってきたのです。特に精神医学や臨床心理学の領域においては、価値観の多様化・多元化社会の到来を前にして、従前のパラダイムの抜本的見直しが迫られていると思われます。

恐らく、価値観の多様化・多元化社会において共生を可能とするパラダイムは、それぞれの人が、多層性多次元性をもつ自己の存在にあって、ある層(次元)のある特定の位相を基準とすれば、異常・疾病・障害が重いといえるが、ある層(次元)のある特定の位相では、ほぼ標準で、ある特定の位相では、軽く、ある層(次元)のある特定の位相では、まったく問題がないといった多義的語りとなり、そのそもそれがかけがえなき個性的人格を形成しているといった言い回しになるのではないかと思われます。

異常・正常、健康・病気、定型・非定型など、簡単にいえる筈がないということを、誰もが新しい常識として、いだきあっている社会と期待されるのです。

こうした社会に移行するときには、自分の存在自体がマイノリティーと思い込んでいた人が、何らかの位相においてはマジョリティーであることに目覚め、これまで自分の存在はマジョリティーと思い込んでいた人が、何らかの位相においては、マイノリティーであると実感・自覚する現象が増加すると予測されます。誰もが、正常(健康・定型)の中に異常(病気・非定型)を包摂し、異常(病気・非定型)の中に正常(健康・定型)を包摂しながら生きているという実感・自覚の浸透の中で、ある程度の価値観の多様性や多義性の共存に伴う曖昧性や不確実性に対してお互いが耐性を抱くことができるようになってはじめて、その先に民主主義的な共生的社会が可能になると考えられるのです。ただ理念・理想としての民主主義的共生社会を声高に主張してもただの求心力のない多様性の一つの声になってしまうと思われるのです。

しかし、万が一にも、その反対に正常・健康・定型と、異常・病気・非定型を分断する方向に社会が進めば、すべてにおいて正常からの異常、健康からの病気、定型からの非定型の排除という差別化傾向を強め、優越感のみなぎるほんの一部の勝ち組と、劣等感に自信を失っていく大量の負け組を作りだす社会になっていくと思われます。