実感・自覚されていく真理

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経験に基づいて真理を探究できると考える立場があります。このような立場に対して、真理は個人の経験を超えたものであり、意識では捉えきれないという立場があります。

前者は経験論、後者は超越論と言われます。

ホロニカル心理学の立場からすると、経験論も超越論も、観察主体が観察対象の中に真理にあたる理(ホロニカル主体)による理性的な判断による立場と考えます。

こうした理性的立場においては、真理を語る観察者(観察主体)が観察対象の外にあり、観察主体そのものが排除されています。観察者の主観を一旦排除しても観察主体による客観的観察対象に対する知的判断によって、真理が発見できるという立場といえます。このような立場では、知的な判断によって明らかになる理のみが真理とする主知主義になります。

しかし、真理には知のみならず、情や意志が含まれるべきです。知は、情や意志の働きを説明できても情や意志を創り出すことはできません。

死への不安は知的な対応だけでは消えません。知は情と意志を排除してしまっていますが、真理や本質的なるものは知情意のすべてを含むべきです。

真理や本質的なるものを知的判断によって明らかになる理とする立場は、観察主体の持つ意志や情(感情、複雑な情緒を含む気分全体)を極力排除したものを客観的対象とあらかじめ限定してしまっています。その結果、合理的なもの、機械的なるもの、記号的なるものだけが真理や本質的なるものとされてしまいます。

ホロニカル心理学の立場で考える真理や本質的なるものは、観察主体が知的に判断するものにはないと考えます。むしろ観察主体と観察対象を含むものの中にあると考えます。観察主体と観察対象を含むものとは観察主体と観察対象が対置する前の段階の、未だ観察主体も観察対象もない直接体験にあると考えます。

直接体験とは、場所に生きる自己が自己自身に場所の一切合切を自己に映し取り組むところです。場所的自己が場所を自己に映しながら適切な自己を自己組織化するところです。直接体験は知情意を含み、知情意が立ち顕れてくるところです。

真理は、直接体験と考えられるのです。直接体験からいろいろな理が発見されると考えられるのです。

場所的自己が場所自身を自己に映す直接体験を通じて、場所の持つ真理をアプリオリに実感・自覚し、直接体験から理として論理化していると考えられるのです。

観察主体を排除しようとするところには真理は明らかにならないと考えられるのです。

ホロニカル心理学では、自己にとって真理は、知によって説明されるものではなく、直接体験において自己自身が実感・自覚をとして、常に腑に落ち続けるものであることが重要と考えているのです。