私たち(自己)が生きている場は、時代の流れとともに変質していきます。特に現代日本においては、あらゆる場において、かつてのような自然・地理・風土・歴史・文化・宗教とのつながりが希薄化し、それに替わるようにして高度情報化社会によって作り出された商品や情報ばかりに日々の生活が取り囲まれてしまっています。
本来、多層多次元性を包摂する力をもつ場が、ひたすら社会的次元のみを加速度的に変貌させていくということは、場に生きる自己にとっては、スピード、効率性、合理性、機能性、技術革新を価値(ホロニカル主体)とする生き方を強いられるということです。加速度的変動社会は、加速度的社会自身を維持・発展させるために、人々に、溢れる情報から何かを選択し、旺盛で過剰な生産活動と消費活動を強迫的に求めてきます。
近代社会は、絶対君主が権力を振りかざしていた封建時代から民衆を解放し、ひとりひとりが自分の意志と権利をもった市民として、政府に自ら権力を付託するという社会システムの構築から始まりました。そしてその後、民主主義の浸透と技術革新に伴う飛躍的な生産活動向上とともに、一見、人々に多様で個性的な生き方を自発的に選択できるかのような社会を創りあげてきたかのように思われます。しかし、今日では、そうした出来事は表層レベルの理想であって、実際には、自己のもっと深層レベルでは、誰もが加速度的変動社会に、自己を適合させざる得ない無言の圧力を感じるようになってきるのではないでしょうか。
しかも現代社会では、宗教、哲学、思想に代わって、人生の苦悩は、「“こころ”の病」として治療対象として変換され、包括的医療サービスのも対象となり、エビデンスという錦の御旗のもとで「“こころ”の病」は標準化され、生物学的に一般化され、対応法もアルゴリズム化されて提供されます。“こころ”の苦悩までもが、商品化され、巨大な市場となってきているのです。
こうした社会の時流を乗りこなせているうちはいいかも知れません。しかしながら、ひとたびこの時流から逸脱してしまうと、たちまちのうちに自己自身と社会の両者から疎外されてしまう危険性があり、場合によっては治療対象として扱われる立場になってしまいます。
生きづらさを個人病理の視点だけ考えることは危険です。生きづらさとは、場の影の顕れと捉え直し、むしろ新しい自己と場を創造する契機とする視点と覚悟が重要と考えられます。