
自己が何かを識ろうとする瞬間、識ろうとするものと識られるものに、すべては二岐します。二岐した瞬間、観察主体と観察対象、すなわち識ろうとする観察主体と識られる観察対象にすべては分かれるのです。通常、識ろうとする観察主体が自己となり、識られる対象が自己自身及び世界となります。
自己が何かを識ろうとする前は、自己と世界の間には境界も無く、すべては主客合一のあるがままの状態にあります。識る観察主体と観察対象に分岐する前とは、ホロニカル心理学でホロニカル体験と呼ぶ直接体験に当たります
主客合一のあるがままの直接体験とは、ホロニカル心理学では、無(絶対無)、仏教でいう空にあたると考えます。絶対無、空といっても何もない虚無という意味とは真逆です。森羅万象がただ一の世界としてあるということです。言葉でもって何かを識別・分別することのない無心の時の世界のことといえます。ところが、無心の状態も、自己が何かを識ろうとした途端、忽然と世界は、自己と世界の主客合一の関係が破れ、重々無尽に識別された多層多次元な世界に変容してしまいます。
多層多次元な世界とは、観察主体となった自己にとって、ある層、ある次元に何かが在ると識別・分別されるような対象世界となって世界が立ち顕れるということです。
識別・分別は、言語によります。言語によって、世界は多層多次元な世界となるのです。言語でもって何かを識別・分別する前には、自己も世界もなく、ただあるがままの一なる世界があるだけといえるのです。
何かが在るといえるような世界に分岐しないということは、そこには何か在ると言えないということです。仏教で無自性といわれるものです。すべては、それそれ自身で自存自立するような本質的なものは一切無く、すべは縁起的包摂関係(ホロニカル関係)に相即相入的に一ということです。しかし、こうした融通無礙の一の世界が、観察主体が生起した途端、多からなる多層多次元な世界に変容するのです。一即多、多即一の世界観です。