身体的自己のもつ主体性

理性的な人、失感情的な人や、シゾイド的な人に対して、つい支援者は、被支援者の感情の明確化や被支援者との感情の共有化を図ろうとして失敗します。こうした人たちは、やる気のなさ、面倒くささ、億劫さ、意欲のなさを自嘲的に言葉にするものの、言葉に付随するもっと深い複雑な感情や情緒まで表現することができません。それにもかかわらず、支援者が被支援者に感情の明確化を求めると、かえって被支援者を追い詰めてしまったり、支援関係を行き詰まらせてしまうことすらあります。支援の停滞は、被支援者がフリーズしたり、押し黙ってしまったりするため、繊細な支援者ならばすぐにわかります。しかし、感情の明確化の作業の限界がわかったとしても、ではいったいどのように対応したらよいものか、支援者は戸惑い続けることになります。

こうした関係を打開できないと、支援関係は共感不全が続くようになり苦痛の展開となります。支援者が何か尋ねれば、あたかも詰問でもしているかのよう被支援者が受け取らないかと、支援者自身が恐れるようになります。もし、沈黙が長く続く展開にでもなれば、ただいたずらに時間だけが流れることに共に焦燥感を覚えることになります。

「沈黙も大切」といって、支援時間中、丸々沈黙を維持する支援者の方もいますが、そうした場合、多くの被支援者は、支援の場から離脱するのが現実です。

ホロニカル・アプローチでは、こうした場面では、被支援者の言語を中心とした外我ではなく、非言語的な内我に焦点化することによって、被支援者の自己及び世界に関する観察の流れは復活すると考えています。最も代表的な対応法は、押し黙ってしまった被支援者の姿勢を支援者がそのまま鏡映的に再現しながら、<今はこんな感じなのですか>と問います。あるは、「頭がまわらない」「どう表現したらいいかわからない」と被支援者が語ったら、<なんか頭が回らない感じがするのですね。ところで今の頭はどんな感じがするのですか><どう表現したらいのか言葉では上手くいえない感じがするのですね、ところでそうした感じは今身体のどこで感じていますか>と、まさに言葉にできない非言語的な身体的感覚について、内我による直覚を促し、支援者は被支援者の内我の感覚の共有化に徹します。沈黙を維持する場合でも、被支援者の内我が直接体験の体験プロセスを安全かつ安心して直覚しようとする作業を保証するためのものでなくてはなりません。またに沈黙の時間の大切さについて、両者の信頼関係のなかで了解されていなければなりません。

言葉によって上手く表現できない身体感覚自体に焦点化することで、被支援者は言葉にはまだ上手くできない何かを抱えたままの自己自身を自己受容し、自己受容した内我がまず主体性を回復してくるのです。被支援者の観察主体による自己及び世界を観察対象とする流れが蘇ってくるのです。この作業がスムーズに展開すると、支援者と被支援者の絆はさらに深くなります。

合理的思考の外我が非合理的で感性的な内我に対して強すぎるため、言語化に行き詰まってしまう人もいます。内我は非言語的な直覚や表象活動が中心です。そうした内我に対して、外我が体験プロセスの論理的な言語化を求め過ぎてしまうために内我が行き詰まってしまうのです。内我が外我のような論理的言語化を求められすぎることによって、内我が自己と世界の不一致・一致の直接体験を直覚することの障壁となり、内我が非言語的な身体的自己の感覚を自己表現できなくなってしまうのです。こうした人は、内我が外我によって他律的に支配されてしまっています。こうした人に対しても、自らが言語化できないもどかしさそのものの非言語的な感覚自体の直覚を促進し、その感覚に対して、支援者が共鳴・共振できると、被支援者の外我と内我をめぐる負のスパイラルが破れ、流れが内我から外我に反転しだします。すると、被支援者は直接体験について、主体的に自己表現しだすように変容していくことができます。

すると言語を中心としていた支援での行き詰まりが、被支援者自身がまだ上手く言葉で語れない自分を主体的に表現しだしてくるように、変容してくるのです。支援者によって主体を奪われていた被支援者が主導権を取り戻しはじめるのです。