場所

西田幾多郎

※「IT(それ)」は、2024.11.20以降、「それ(sore)」に統合されています。以下のブログは、統合前のものです。

 

哲学者の西田幾多郎は、「形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛(けんらん)たる発展には尚(とうと)ぶべきもの、学ぶべきものの許多(あまた)なるはいうでもないが、幾千年来我らの祖先を育み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んで居るのではなかろうか。我々の心は此(かく)のごときものを求めてやまない。私はかかる要求に哲学的根拠を与へて見たいと思ふのである。」(西田,1927)とし、長年の思索の結果、すべての於(お)いてある根拠としての「絶対無の場所」に到達しました。主語の論理と述語の論理の関係でいうならば、哲学者カントが、主語の論理の自己超越的方向に「純粋統覚」といった「自己の外」に哲学の根拠を求めたとするならば、西田は「自己の内」へと超越し、「場所の論理」を構築したといえます。

カントは、私たちの認識が、観察対象の刺激によって構築されるのではなく、観察対象が私たちの認識によって構成されていると、これまでの認識論を180度引っくり返しました。「コペルニクス的転回」といわれます。しかし、自己の外に超越したカントの認識論を、さらに180度回転させた西田は、「絶対無の場所」によって自己の内に超越したといわれます。

万物も、いずれ無となるということ認める時、あらゆる生成消滅の出来事そのものが、そこに於いてある場所がなくてなりません。有として在るものを創造すとともに、有として在るものを否定して無とする場所がなくてはなりません。主体と場所の関係でいえば、カントが主体の立場から哲学したとすれば、西田は180度逆にして、主体も於いてある場としての場所の立場から哲学的な根拠を考究したといえます。

物が有るという有に対して、意識は物が有るようには無いと、有に対立するものとして語られます。が、そうした物や意識など、意識の対象となって相対立する有無の現象を包み超える場所がなくては、物も意識も意識の対象とすることすらできません。

すべてがそこに於いてあり、すべての生成消滅に伴う有無の現象とともに有無の現象を超えて、すべてを包み込んでいる場所があると考えられるのです。

わたしたちは、そうした場所から生まれ、場所に死に行くと考えられるのです。

自己と世界の不一致・一致の現象世界は、「絶対無」と言う場所自身の絶対矛盾的自己同一によって自発展開しながらも、場所自体のもつ統一の性質によって統合されていると考えられるのです。

ホロニカル心理学では、カントの「純粋統覚」とは、「IT(それ)」のことであり、西田の「絶対無の場所」は、仏教が「空」とするものであり、「絶対無」「空」とは、“こころ”そのもののことと考えています。したがって究極の見るものである「IT(それ)」と、究極の見られる場所である“こころ”の関係は、「一に非ず異に非ず」の西田哲学の絶対矛盾的自己同一の関係にあると考えています。

また、西洋人は、「IT(それ)」を天空の方向からすべてを包む神の働き(のようなもの)を実感・自覚する傾向が強く、それに対して、東洋人、特に日本人は、「山川草木悉皆成仏」といわれるように、すべてに仏の働き(のようなもの)を実感・自覚するという「IT(それ)」をめぐる霊性の捉え方の差異が、心と物を二元論的に対立させ、物を対象化する認識の働きに心や精神の働きを感じとる西洋と、東洋の心身一如的な“こころ”の捉え方との差異をもたらしてきたと考えられるのです。

ただし、現代日本人は、西洋的になってきているといえます。が、まだまだ日本人の深層次元では、東洋的な心身一如的な“こころ”の直観が働き、意識の表層と深層のねじれ現象が見られます。

 

参考文献:西田幾多郎(1927).働くものから見るものへ(序).In:上田閑照編『西田幾多郎哲学論集1 場所・私と汝 他六編』,1987.岩波書店,p36.