哲学でいう認識論のひとつに独我論があります。この世の中に確かに存在するのは、自分の認識だけであって、すべては自分の意識に映されたものに過ぎないというものです。
人は、別に哲学的な論理を展開させなくても、とかく独我論的な心境に陥り易いものです。
しかし、次の西田幾多郎の言葉は、独我論から救いだしてくれます。
「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た。」
「善の研究」(1911)の序文の中の一文です。私が何かを経験しているのではなく、経験しているのを意識する私がいるとし、私と経験の関係を逆転させているのです。