無とは、限定される大きさや広がりがなく、中身がなく、遍在するものといえます。それに対して、物質が有と言われるのは、限定された大きさや広がりがあり、そこに中身があるからです。
したがって、“こころ”は、無といえます。しかも、“こころ”は、身体的自己内の活動に限定されると、限定された内容をもつような相対的有(物質的な活動)の特徴を帯びます。ところが一方では、身体的自己の限界を軽く越えて、中身がなく遍在するような相対無(越個的意識)の特徴を帯びたりもします。こうしたことからして、“こころ”とは、相対有・相対無を生み出す絶対有自体をそれ自身で自己否定的に産み出す究極的な絶対な無といえます。
究極的には絶対的な無だからこそ、“こころ”は、いろいろな“こころ”が重なり合うことができるのです。“こころ”が、物体のような相対的有の特徴に限定される性質だけならば、個物を越えて、“こころ”は重なり合うことはできないはずです。
自己の物的側面(身体的側面)は、相対的に有であり、限定された大きさや広がりを持ち、中身があります。しかし、自己の心的側面は、身体的自己の限定を受けることになく、どこにも偏在し、いろいろな“こころ”が重なり合って、自己の“こころ”となることができるのです。
“こころ”の個別性(自己)の究極とは、身体的自己に限定された物質的存在を意味しますが、“こころ”の心的側面の究極は、個別性を超えたすべての“こころ”が重なり合い、無差別・平等の普遍的なものになるのです。