客観的事実の世界とは

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主観と客観という二元論的立場に立つ客観とは、観察主体となる自己を自己外という自己超越的立場から世界を観察した世界を客観とみなします。しかし、真に客観的な世界とは、観察主体となる自己の存在を含み、自己を包摂する世界でなければなりません。しかも客観的であるためには、観察主体となる自己を自己自身が否定し、西田幾多郎のいう「物となって見、物となって考え、物となって働く」ことに徹することが必要です。

西田のいうことを平易な言葉にすれば、観察主体となるの意識を無とすることです。これは東洋思想が重視してきた無我の思想でもあります。観察主体となる我の意識が無となり、観察主体と観察対象との関係が無境界になる世界が最も客観的な世界といえます。自己を含む一切が縁起的包摂関係(ホロニカル関係)の中で無分別状態となり、すべてがあるがままの出来事の世界になるのです。井筒俊彦の言葉を借りれば、「存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成」の境地が客観的事実の世界といえます。観察主体が観察対象を対象論理で知的に理解する世界ではなく、自己の実感と自覚によって了知される世界が客観的事実に基づく実在世界といえます。

観察主体が無になるとは、我の意識が無になって、自己と世界の区別がなくなる体験そのものになることです。しかし自己の存在自体が無になるわけではありません。自己と世界の関係が一致し、あるがままの客観的な実在世界と触れた瞬間の実感と自覚を手掛かりにして、自己は自己と世界の不一致をできるだけ一致させるような適切な自己を自己組織化させることができるのです。

自己意識を最も発達させた人間の場合、適切な自己の自己組織化を促進するだけでなく、世界を人間と一致する方向に変容させようとします。一方で、世界は、世界自身を適切な世界となるように自己組織化させようとします。ここに、人間と世界との不一致・一致をめぐるせめぎ合いが展開するのです。

自己は無になればなるほど、自らを創造した世界、真の自己になることができるといえます。