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ホロニカル心理学でいう「自由無礙の俯瞰」とは、ミクロの視点からマクロの視点まであらゆる現象を実感・自覚することであり、窮極的には、世界の立場から自己を通して世界自身を実感・自覚することといえます。ある特定の視点や立場から、何か特定の観察対象を観察するといった固定的観察の限界枠を超えることです。
実は、「○○について理解する」「○○について認識する」「○○を知る」といった理性的な行為では、私たちが日頃、質的実感を伴って「ある」と感じている「“こころ”全体の感覚」をとても実感できません。理性による説明だけでは、“こころ”が実感している複雑な質的で感性的な感覚を説明しきれない不全感が必ず残るのです。
こうした不全感は次の理由によります。
「理解する」という行為とは、「何かが何かについて理解する」という行為です。同じように、「認識する」という行為も、「何かが何かについて認識する」ということであり、「知る」という行為も「何かが何かについて知る」ということです。このことを一般化すると、「ある観察主体」が、「ある観察対象」について、「理解」「認識」「知る」という構図になります。
しかしながらまさにこの構図になった途端に理性の限界が発生するのです。実際の出来事をあるがままに直覚するためには、観察主体と観察対象の関係を固定化したり限定してしまっては、固定化する前のあるがままの全体を把握しきれなくなってしまうのです。
同じ観察対象に対しても、ある観察主体の違いによって観察対象の振る舞いは、まったく異なって観察されます。同じものを観察対象として識別していても「好き」「嫌い」といった気分が少しでも関与すると観察対象のイメージはまったく別物ものに変貌するのです。ましてや、同じ観察対象に対して異なる観察主体が観察した場合などは、まったく異なる結果となるのは日常茶飯事です。同じ物をみても人の受け取り方は実に千差万別なのです。理性によって、そこに「薔薇」があると辞書的に定義し、客観性や普遍性として、そこの「本質」を見極めたとしても、気分の差異や人の差異や状況の変化によって、まったく異なる薔薇が発見されてしまうのです。
さらに観察主体と観察対象の関係を固定化することの重大な欠陥は、観察主体と観察対象が二岐する直前まであった生々しい体験世界から観察主体が疎外されてしまうことです。その代償はとても大きく、観察主体は、観察対象を厳密に識別しようとすればするほど直接体験のアクチュアリティから離れ、すべてが色あせてしまいます。
科学的データーを駆使して原子力発電は安全だといくら力説しても、多くの人が不安を払拭できないのも理性の限界を示す例といえます。
本来、私たちの“こころ”が実感している実在するものとは、観察する主体(自己)と観察対象(世界)が二岐する直前の刹那の一瞬・一瞬の直接体験のすべてといえます。そして、もともと不可分一体の関係にあった観察主体と観察対象の関係が観察行為そのものによって切断されてしまった瞬間、すべては観察主体と観察対象の世界に別れてしまうのです。すると、自己(主体)は、世界(客体)を理解し、認識し、知るものとなるのです。
西洋の近代科学と共に発展してきた西洋の心理学は、まさに“こころ”の働きを、「近代的自我」が、「理解」「認識」「知る」こと、すなわち観察することによって成立してきました。しかし、そうした認識方法だけでは、“こころ”が直接体験として実感していたものから離れ、その結果、逆に“こころ”のことについて語り尽くせないものが常に不全感として残ってしまうのです。
「理解」「認識」「知る」という認識方法では、あるがままにすべてを実感・自覚することができず、「理解するものと理解されるもの」「認識するものと認識されるもの」「知るものと知られるもの」の間に溝ができてしまうことを避けられません。識別し認識するという行為そのものが不全感をもたらすのです。不全感を埋め尽くそうとして、「もっと理解したい」「もっと認識したい」「もっと知りたい」という知的好奇心を人間はもつようになったといえます。しかし確かに人間は理性的存在で知的好奇心を抱きますが、感性的なものや直観的なものを制御するために理性を持つようになったのではなく、感性的なものや直観的なものをより理解するために知性や理性を持つようになったと考えられます。
実は、“こころ”を、観察する主体の働き(意識)であると、極めて限定的に考えるのか、それとも観察する主体と観察対象を含んだもっと広い働きと考えるのかで、まったく“こころ”のとらえ方が変わってきます。西洋の心理学は、“こころ”の働きを限定する方向で研究してきたように思われます。その結果、西洋の心理学の多くは、基本的には、人間中心、個人中心、意識中心です。“こころ”の働きを観察主体という自己内の現象として理解してきている傾向にあります。こうした人の中には、無意識を含む人もいますが、あくまで私の意識内における無意識というパラダイムがアプリオリにあります。“こころ”の現象を、すべて脳などの生物・神経学的な作用でもって説明しようとする流れにある人たちも、パラダイムとしては、人間中心、個人中心、無意識を含む意識中心であることには変わりがありません。
ホロニカル心理学では、西洋的心理学の立場は、自己と世界の不一致の時の自己内に起きる現象に“こころ”の作用を限定しながら、学問的知見を集積してきたと考えます。それに対して、東洋では、古来、“こころ”の作用を、自己内の意識の現象に限定せず、観察主体である「我」が無となって、観察主体と観察対象が一致した瞬間にも働くものとしてもっと広く捉えていたと考えます。東洋では、自己と万物、自然、宇宙、神、仏などとの関係を見出すところにも遍(あまね)く働くものとして、“こころ”の作用を実感・自覚してきたのです。「是心是仏(ぜしんぜぶつ)」(観無量寿経)「三界唯心」(華厳経)「三界虚妄、但是一心作」(華厳経)などがその代表です。
ホロニカル心理学では、宗教、哲学、西洋の近代以降の心理学ばかりではなく、東洋の“こころ”のとらえ方を含んで、心理学の対象と考える新しいパラダイムを提起します。西洋思想と東洋思想の智慧を尊重しつつも、その枠を超えて、観察主体と観察対象の不一致・一致の繰り返しの中に、“こころ”の多層多次元な現象の顕れをみようとするわけです。
古今東西を問わず心理学は、本来、“こころ”の現象を実感・自覚するところから出発すべきです。この原点を失った実感・自覚なき心理学は、別の学問に統合されてしまうか、さもなくばただの知的に考え出された空論になってしまいます。この先、情報科学や脳科学などの現代科学の発展は、“こころ”の現象をいろいろな形で、客観化したり、データ化したり、可視化することを可能とするでしょう。しかし、“こころ”は、客観化し尽くすこと、データー化し尽くすこと、可視化し尽くすことはできないのです。“こころ”とは、認識し尽くすことができないものといえるのです。
しかし逆にいえば、“こころ”は、いつでもどこでも誰でもその存在を実感・自覚できるものであり、これほど人間にとって、確かな現実感をもたらしているものはないといえます。だからこそ、“こころ”とは、実感・自覚に基づいて、認識しながら、理解しながら、知りながら、語り続けることができる誰にとっても一生研究対象になりうるものと考えられるのです。