無自性としての“こころ”

無自性の象徴

仏教の基本的な考え方のひとつに「無自性」というのがあります。
その意味するところは、物事には何も普遍的な本質や実体のようなものはないということのようです。ホロニカル心理学でも「無自性」の考え方を重視します。

今、ここに水があるとします。この水も温度が下がれば氷に変化します。温度が上がれば気体に変化します。気体となった水蒸気は、沢山集まれば雲に変化します。雲もきっかけがあれば、雨に変化します。地上に雨が集まれば、川に変化します。このように水とは、いろいろ変化し、いろいろな物として識別されることはあっても、どこにも水という永遠不変の実体や本質というようなものはないというわけです。

確かに、水に限らず、どこにでもある一見硬くみえる石すら、いずれは風化していきます。

いやそれ以上に、最近の量子力学では、極限の世界で、一見、硬くみえる粒子ですら、いくつかの波動の重ね合わせの特異点のようなものだといいだしています。こうなると、万物を本質によって識別し、識別された事物同士が普遍法則で結びついていたこれまでの固定的な世界のイメージが、その根っこのところで、数え切れない波動の重なり合いが織りなす絶えず変化する流動的世界のイメージに変化していきます。各事物を区別していた本質的な実体の差異が、どんどん解体して、すべては、「無自性」のあらわれという仏教的世界観に限りなく近づくことになるわけです。

実は、「無自性」を突き詰めていくと、“こころ”も「無自性」と気づくことができます。

誰もが、行動、感情、愛憎、思考・・・などに「こころの働きの変化」を感じとることはできても、“こころ”そのものを見ることはできず、その本質や実体など掴めないのですから、「無自性」そのものといえるのです。

心理臨床では、「臨床の知」を大切にしますが、般若心経などは、どうやら、ずっと昔から、こうした「智慧」を説き続けてきているようです。