
心理学を、人の営みを一般化された原理や客観化された原理から語る態度から抜け出し、生きる人の全一的な営みそのものを物語るものへと変容させていく必要があります。
心理学は、リアルな物を観察する時と同じような態度で“こころ”を観察対象として、あたかも客体的存在でもあるかのように扱うのではなく、生と死、愛と憎しみに苦悩し、喜怒哀楽に揺れる個性的でアクチュアルな主体的存在として扱うようなものに変容させていく必要があります。
また、自己、他者や世界も、“こころ”に関係なく存在するような観察対象などではありません。また他己にとっても、自己や世界は、他己の“こころ”の働きに関係なく存在する観察対象などでは決してありません。
生きている“こころ”が関与する限り、他者や世界から独立した存在として「自己」を客観化したり、客体化して扱うことは不可能なのです。観察しようとする行為そのものが、必ず観察主体としての自己の“こころ”の働きに影響してしまうし、観察主体の“こころ”の働きが、観察対象である自己自身や他者・世界の現象の観察結果に影響を与えることを避けることができないのです。観察主体と観察対象の関係には不確定性原理が働くのです。
自己が意識されるところには、必ず、自己でない何か(他者や世界)があります。自己が自己自身の存在を意識している時には、自己は同時に、非自己(他者・世界)を必ず意識しながら存在するのです。自己と非自己が意識されるところに自己と非自己があるといえるのです。しかも自己は、非自己(世界)との刻々の出会いのせめぎ合いの一瞬・一瞬において、常に自己であろうとしながら絶えず変容しています。自己は、非自己(他者・世界)と関係なく孤立して存在するどころか、実態は真逆で、自己は、非自己との関係の中でしか自己として存在し得ないといえるのです。
しかしながら自己と他者や世界が区分されるというのは意識作用によるものです。意識による錯覚ともいえます。そして、自己は他者や世界を自己内に包摂しようとして存在し、他者や世界もまた自己を他者や世界内に包摂しようとします。すべてがせめぎ合って存在しているのです。せめぎ合いながら、自己は、自己と世界と無境界的に一体化することを希求します。宗教はこうした希求からはじまります。
ところで、自己と非自己(世界)の間に何も区別もなく無境界ということは、一体、どうことでしょう。無境界ということは、自己と非自己(他者や世界)の区別や識別の意識が働いていないということです。すると、区別したり、識別したりする意識が働いていない以上、自己も非自己(他者や世界)が有るか無いかということすら語ることができないことになります。区別したり識別するものがない限り、何かがあるとは正確には言えないのです。区別したり識別する意識が働けば、たちどころに自己や万物が立ち顕れますが、区別や識別の作用以前に、何があるかと問われれば、不問に付すしかないといえます。悟りを求める禅が言葉による分別を嫌い、自己と世界の無境界的な言詮不及の境地を求めるのも、こうした自他分岐以前、主客分岐以前の一切がすべての境地を求めるからといえます。
また多くの人は、自己と世界の無境界というテーマに触発されて、死のテーマを思い浮かべます。死とは、自己にとっては、自己ばかりではなく、非自己(他者・世界)も無くなることですから、これもまた無境界となることといえます。自己は、自己の死によって無になりますから、自己にとって死とは、絶対無になるということになります。しかし、ある他己の死は、自己にとっては、非自己(ある他己以外の他者と世界)が存在する限り、絶対無とはなりません。相対的な生と死が交錯する悲哀に充ち満ちた絶対有の世界が、まだまだ展開することになります。ところが死は、あらゆる個物や万物にもあります。硬い物質でもいずれ解体していくことでしょう。星もいずれは消えます。窮極的には、すべては無常であり、絶対無になるといえます。
絶対無とは、宇宙の始まり以前、世界のはじまり以前でもあります。ということは、結局は、絶対無から、すべてが立ち顕れ、そして、すべてが絶対無になるということになります。
絶対無から、区別・識別されて意識される自己とか他者とか世界と呼ばれる現象が立ち顕れてきて、やがてすべては絶対無になるというわけです。
こうした絶対無とその顕れの現象こそが、ホロニカル心理学では、“こころ”の現象に相当すると考えています。