※「IT」は、2024.11.20以降、「それ(sore)」に統合されています。以下のブログは、統合前のものです。
自己(場所的自己)にとって、究極的観察主体そのものは、観察対象とすることができません。もし観察主体をさらに観察対象とすることができるものがあるとするならば、それがそれまでの「究極的な観察主体」に代わるまた新たな究極的観察主体となり、それでは究極的観察主体が無限に後退していくだけに終始します。
ホロニカル心理学では、究極的な絶対的観察主体とは、「それがそれ自身を観察するもの」と考えます。
ホロニカル心理学でいう「IT(それ)」の概念がそれに当たります。「IT(それ)」とは、「IT(それ)自身は観察対象となることのない究極の絶対的観察主体であり、観察対象そのものとなるもの」となります。
それに対して、ホロニカル心理学でいう「直接体験」とは、自己(場所的自己)が、場において自己と世界が不一致・一致を繰り返している出来事そのもののことです。自己(場所的自己)にとっては、「実在するもののすべて」「現象そのもの」「あるがまま」のことです。
場に生きる自己(場所的自己)にとって、「IT(それ))」が究極の観察主体とするならば、「直接体験」が、究極の観察対象といえるわけです。
場所的自己に限らずあらゆる万物や出来事が、場から創造されていると考えられます。すると場所的自己にとって、自己と世界の不一致・一致とは、場との不一致・一致のことです。場所的自己にとって、自己と世界の不一致とは、場所的自己と自らを創造した場との関係が不一致の関係になってしまうことです。逆に場所的自己にとって、自己と世界の一致とは、場との一致にほかなりません。自己も世界も、場から創造されているという意味では、場所的自己が場と化すことといえます。
このことを観察主体と観察対象の関係に言い換えると、実は、「場」と「IT(それ)」との一致になります。「IT」とは、「それ自身は観察対象となることのない究極の観察主体であり、観察対象そのものとなるもの」ですから、「IT(それ)」とは、究極の観察主体であり、究極の観察対象でもある「場」といえるのです。
しかしながら場所的自己にとっては、「直接体験そのもの」は、語ることが出来ても、語り尽くすことができないものといえます。「直接体験」を語った途端、語り得ないものを排除してしまうことを避けることができないからです。直接体験とは、語ることができない行為に伴う非言語的な直観といえるわけです。
私たちは、自己(場所的自己)の「直接体験」を観察対象として、「IT(それ)」が現実主体を通して、「直接体験」を実感・自覚しながら生きていると考えられるのです。自己(場所的自己)と世界の一致体験を自己照合の手がかりとして、自己と世界の不一致を、より一致する方向に自己と世界を自己組織化して生きることが求められているといえるのです。
そして、自己(場所的自己)や現実主体の差異だけ、異なる自己と世界がそれぞれの場所的自己が生きる場において、自己と世界の一致を求めて、異なる物語を創造していると考えられるのです。