ホロニカル関係(9):一挙一切同時顕現の世界

あらゆる事象は他の事象と差異があることによって区別されます。このとき区別は、言語による識別によります。そのため言語による識別を一切やめ、あるがままにすべてを直観することができると、重々無尽に識別されていた多の世界が、一挙一切同時顕現の一の世界になります。するとそれまで識別されていた事象のいずれも独立自存的に振る舞っているものなど一切なく、他の多との網目状の創造不断のネットワークの変化の中の結節点として振る舞っていることが実感・自覚されるのです。このとき、重々無尽の多の網目状のネットワークを同一性をもったものとしてつなぐ何らかの働き(自然の摂理)を実感する契機となります。多を一とする働きがなければ、すべては相互関係性を失い断片化し、この宇宙そのものが解体し、識別・分別する自己自体も虚無となるはずです。しかし、実際には、そのようなことはありません。私たちは、自己も重々無尽の世界をひとつの世界として実感・自覚しているのは確かなのです。

差異性は同一性を包摂し、同一性は差異性を包摂しているのです。差異性を意味する無限のミクロの点を極限とする部分(粒子)と、同一性を意味する無限のマクロの球を極限とする全体(宇宙)が、多即一・一即多の関係にあるのです。部分という出来事には全体という出来事が包摂され、全体という出来事には部分という出来事が包摂されているのです。ミクロ(部分)からマクロ(全体)に至るあらゆる出来事が、縁起的関係をもちながら、ホロニカル関係(縁起的包摂関係)によって一挙同時に顕現しているのです。

あらゆる一瞬の出来事は、無限の他の多の出来事との複雑な重ね合いのうちに全体的相互連関性を形成しながら起滅を繰り返しているのです。

ホロニカル論の論理は、西洋哲学の思惟の三原則である「AはAである」(同一律)、「Aかつ非Aでない」(矛盾律)、「Aまたは非A」(排中律)と異なります。むしろ東洋のテトラ・レンマの論理と相似的です。特に仏教の「空の論理」では、「Aである」「Aでない」「Aであることもなく、Aでないこともない」「Aであることもあり、Aでないこともある」とし、「一切は空である」「一切は空でない」「一切は空であることもなく、空でないこともない」「一切は空であることもあり、空でないこともある」と説きます。このパラダイムが、ホロニカル論の論理と相似的になるのです。

ホロニカル論では、観察主体と観察対象が主客に分離し、観察主体が観察対象を客観的な存在として対象化した時の対象論理が思惟の三原則と考えます。それに対して、主客分離時の論理に主客合一のときの論理も含むとテトラ・レンマになると考えています。テトラ・レンマでは、観察主体と観察対象の区別が無境界となっている時の体得的な論理を含むと考えられるのです。「Aであることもなく、Aでないこともない」「Aであることもあり、Aでないこともある」が、これにあたります。

このように観察主体と観察対象の関係の論理が異なると、自己も世界の捉え方も異なってくると考えるのがホロニカル論です。西洋の論理と東洋の論理の違いも観察主体と観察対象の関係の違いとして統一的に理解可能と考えています。

 

創造不断:井筒俊彦が、西洋の絶対的時空概念に対して、東洋的時間意識として明らかにした概念(井筒俊彦著.コスモスとアンチコスモス.井筒俊彦全集,第9巻.慶應義塾大学出版会.2015.pp106-185)