社会的包摂能力(3):親の養育責任だけにしない社会

ツバメのヒナ

幼い子どもは保護者に依存するしか生きる道がありません。

そのため傍からみればたとえ不適切にみえる養育であったとしても、幼い子どもからすると保護者は、自分の生死の鍵を握っている絶対的存在となります。虐待する保護者への幼い子どもの忠誠心は周囲が思う以上に強く、周りからみれば酷い保護者でも、幼い子どもからすれば生きるために必要な存在となります。

また不適切な養育が長期にわたって密室で行われ続けてしまうと、子どもは保護者以外の人に適切に助けを求める力すら育たず、恐怖と絶望にひたすら絶える方法を身につけながらも保護者の存在を絶対化していきます。

仮に一時的に保護者の態度への疑惑を抱くことがあっても、保護者の一言で、服従し籠の中の鳥になってしまいます。仮に保護者以外の人に手助けを求めても、無差別なしがみつきとなったり、しがみつき対象との間でほどよい対人距離を形成することができず、安定した関係を形成できにくくなってしまっています。

苛酷な家庭に育った子どもは、過激な体罰・脅迫・威圧・否定的な養育であっても、それは自分自身が愛されるに値しない問題を抱えているためだと、問題の原因をもっぱら自己自身に帰属させて強い原罪意識を抱き、その結果、自己否定的になってしまうからです。

雨露をしのげず、食べ物がなければ飢え死するしかなく、たとえ虐待をする保護者であっても屋根と食べ物を与える間は、生存のための絶対的依存対象となってしまい、適切な他者の助けを受ける力も十二分に育っていないのです。

苛酷な環境に育った子どもは、どこかで根気よく諦めない他者による適切な保護的存在によるケアを持続的に体験しない限り、やがてそのまま大人になり、また不適切な保護者と再び同じことを繰り返してしまいがちです。悪循環パターンの世代間連鎖です。それだけに彼ら彼女ららが苛酷な過去を生き延びてきた勇者であること畏怖する誰かが、どこかで世代間の悪循環連鎖を断ち切る適切な保護的存在となって登場する必要があるのです。

不適切な養育を防ぐためにもっとも効果的な方法とは、養育の責任を親の自己責任だけに押しつけない社会的包摂力をもった他者や社会をつくりあげることです。子どもの立場からすると親以外の大人のいろいろな適切なケアが豊富に体験できることです。そのためには、不適切な養育をする親に反抗したり、疑問を抱いたり、自己主張し憤怒する子どもを愛おしく思う子遣り文化が根付いた社会を形成することが大切なのです。

保護者もまた社会に開かれた養育が保障されている方が、養育の密室化による息苦しさから親自身が解放されます。子どもの養育の一部を安心して任せることのできる社会の方が、子どもとほどよい距離を保ったほどよい養育ができるのです。

親自身が社会に適切に包摂される体験が、子どもとの適切な養育の力を育む包容力となります。また適切な保護的な包容力を内在化した子どもは、やがて自分は誰かに心配されるに値する存在だと実感・自覚できるようになります。そして過剰な衝動性や攻撃性から上手く身を守ることができる術を身につけ、適切な自己愛や他者愛をも育むことにつながります。

子どもは親が産み分ける存在ではなく、世界から授かりものです。命のつながりの中で、子どもは自らの力で世界に生まれ出てくる存在といえるのです。

そして人間社会に生まれる子どもたちは、産みの親だけでなく、多くの人々によって大切に育てられるべき社会的歴史的存在といえるのです。社会が適切なほどよい保護的包摂能力をもつことが大切といえるのです。そしてたとえ不適切な絆を形成してきた人でも、適切なほどよい保護的包摂能力をもった他者や社会との出あいによって確実に変容することが可能になるのです。