私の眼鏡

今、私は遠近両用の「眼鏡」を使って、この文章をパソコンで書いています。

では、私の今使っている「この眼鏡」について定義してみましょう。

まず、私という主観には関係なく、客観的に存在する識別される「物質」としての眼鏡の定義が考えられます。物質としての眼鏡については、客観的視点から厳密に定義していくことが可能です。辞書的に定義できる眼鏡です。材質、手触り、色合い、デザイン、値段などについて記述することができます。写真に撮れば、どんな外観か、誰にでもすぐに理解可能です。また、客観的な定義なら、私以外の人でも可能です。

ところが、私が今使っている眼鏡には、もう少し複雑な感覚があります。こうした感覚を伴う眼鏡には、客観的に定義された眼鏡だけではなく、物質として定義される以外の様々な私の主観的な要素が含まれてきます。たとえば、材質、手触り、色合い、デザインなどに対する私の嗜好、今この部屋の温度と湿度の中、私の体温と眼鏡の温度の絡みあいなどによって醸し出される耳介と眼鏡の触れあっている微妙な身体感覚、私の近視・乱視・老眼の進行度合いと眼鏡のレンズの厚みの関係から来る視覚的感覚、眼鏡を購入した時の私の記憶、製造元の開発者の思いまで、ふと思い出す私のこの眼鏡に関する記憶など、私の主観や身体感覚まで含めることができます。

また私が今、道具として使っている眼鏡が、どのような世界史の歩みの中で作られてきたかという、文化・歴史を定義に含むこともできます。今、私が使っている眼鏡の材料は、いったい世界のどこの国のどんな材料が使われ、眼鏡を製造する機械も、どのような国々でどのように開発されてきたかについて定義に含むこともできます。

このように、実は、私が直接体験で直覚している眼鏡は、無限に定義することのできる、語り尽くすことのできないものといえるのです。

今、私が使っている眼鏡は、今・この瞬間ですら、他の様々なことを包摂し、かつ、今、この瞬間、他の様々なあらゆる出来事の限定を受けながらも存在しているといえるのです。

客観的に定義できる眼鏡は、私の眼鏡のうちのほんの一部でしかなく、語り尽くせない眼鏡こそ、今私の使用している「眼鏡そのもの」なのです。実際、こうした原稿を書いているだけで、眼鏡と私との関係がより深まっていくのを、ひしひしと感じています。

それが、今・私が使っている眼鏡といえるのです。