子ども虐待においては、虐待通告受理後、「48時間以内に児童相談所や関係機関において、直接子どもの様子を確認するなど安全確認をする」という全国共通のルールがあります。そして緊急性や必要があれば、今の児童相談所は、子どもを一時的に保護するなどの介入的支援を積極的に実施します。
また、一時保護の有無にかかわらず、児童相談所は関係機関の協力を得て必要な調査や診断などによる総合的アセスメントを実施し、まずは子どもの権利擁護の立場から、必要ならば保護者に適切な養育をするように注意喚起するなど指導・助言を実施し、在宅処遇の場合は、当面の間、関係機関と協力して家庭の動向をモニターしていきます。それでも保護者の態度に改善が見られない場合には、子どもを里親・児童福祉施設など社会的養護の対象とすることへの同意を求め、その提案にも正当な理由なく同意しない場合には、内部でいろいろ議論を重ねた上、司法の判断を仰いで親権の制限や消滅も辞さないという対応をとるのが、昨今の児童相談所の定型となりつつあります。
こうして児童相談所は、児童虐待の防止等に関する法律(2000年11月施行)以降、かつては、あらゆる児童相談の第一線の機関として、夜尿、言葉おくれ、緘黙やチック、不登校、障害児の在宅支援、非行・家庭内暴力の相談、そして子どもを養育できないという養育相談など、信頼関係に基づく相談・支援機関から、場合によっては保護者との対立覚悟の虐待中心の機能が強化された行政的色彩の強い機関へと様変わりしました。児童福祉法は何でも改正され、必要ならば親権と対決的な根拠を強め、児童保護的な制度の強化は、コンプライアンスの重視とともに、アセスメントや各種手続きの手順の基準を定型化し、当事者と支援者の間の濃密な人間関係づくりの時間を削りとってきました。
しかしながら虐待防止法施行以降の児童相談所にあっても、子どもや保護者に対する何ら具体的な支援・相談を欠いたままの法的行政的権威を背景にしたパターナリズム的な指導・助言だけでは、保護者や子どもとの関係を悪化させたり、保護者と子どもとの関係改善もほとんど見込めません。その結果は、虐待の再発や一時保護の繰り返しです。そしてやがてどん底にまで至って、社会的養護の対象となります。しかも、実際の社会養的護の資源も慢性的に不足し、子どもの安全で安心できる居場所が圧倒的に不足したままというのが実態です。
こうした現行の子ども虐待への対策の大枠のパラダイムは、保護者への介入的支援による「子どもへの保護主義的対策が中心」といえます。しかし、虐待防止法が制定される以前から、在宅状態における地域処遇型の相談支援の強化など,「より添い型」の子ども家庭支援対策を欠く、保護主義的対応のみのパラダイムに基づく対策だけでは子ども虐待への対応に限界があることは関係者の多くが指摘してきたところです。今日の児童福祉対策の現況は、こうした危惧が誰の目にも明らかになりだしたといえます。
全国225か所の児童相談所の子ども虐待相談処理件数の年次推移は、1990年度が1,101件で2021年度の速報値は 207,659 件です。ここ30年余りで189倍近い指数関数的増加です。これだけの膨大な数になると、児童相談所の職員よる対応だけでは、ごく限られたケース以外、丁寧に支援・相談活動をおこなうことはほとんど不可能です。しかし重篤な体罰を含め、虐待の深刻な問題は、暴力・威圧・威嚇・罵声・否定など、パワーによる人の支配による見えない心身の傷(複雑性PTSDなど)が中心です。そのため児童の権利保護の最後の砦といえる児童相談所には、身体的暴力の重傷軽傷を問わず、次々と様々な“こころ”の傷を背負った子どもへの対応を地域社会も関係機関も期待して、どんどん通告してきますから、児童相談所をはじめ児童福祉現場は当然の如くここ何十年の間に常態的に野戦病院化してしまいました。
児童相談所での虐待対応件数の増加は、早期発見・早期対応が可能になった証と楽観できるような数字ではないのです。地域処遇を可能とする子ども家庭への在宅支援対策が絶対的に不足する出口戦略なき通告の増加は、児童福祉の後退とすらいえるでしょう。190倍近い対応件数の意味するのは、児童相談所の職員増加、専門性の向上や機能強化を図れば対応可能な問題ではないのです。むしろ児童相談所の対応件数の増加は、子ども虐待への包括的統合的な子どもと家庭を支援する児童健全育成対策の圧倒的な不足によって、要保護対策の対象となる子どもと保護者の増加を招いてしまったという社会問題と言い換えられます。
しかしこうした社会問題は、決して行政・政治の問題のみならず、国民ひとりひとりが真剣に取り組むべき問題でもあります。傷つく子どもや子どもを傷つけしまう保護者が目の前にいるとき、どう振る舞うべきかは、国民ひとりひとりの問題でもあるのです。
190倍の数字の背景の大きな要因の一つには、危機家族や弱体家庭に対する地域社会の社会的包摂能力の弱体化・解体化があります。子育てには「100人の村人がいる」とか、「あんたは産みさえすればいい。あとは島が育てる」という言説があります。「うちの子」とは、「自分の子」だけではなく、「うちの村の子」を意味し、地縁血縁に基づく子遣り文化が地域社会のもつ子育て能力でした。そうした地域の子どもを思う「子遣り文化」が、地域共同帯的絆の解体とともに、高度情報化社会の中で忘れ去られてきたのです。そして地域社会の責任に代わって声高になってきたのが、保護者責任論や自己責任論です。無縁社会に生きる人にとって、見ず知らずの他人の赤ん坊の夜泣きは騒音にしか聞こえなくなってきたのです。こうして子ども虐待の問題は、誰しもが私以外の誰かが解決すべき問題になってきたのです。
自己責任や保護者責任を求める社会は、子育てが、「地域社会の監視の眼差し」に晒されだしたことを意味します。そして社会の冷たさを恐れる家庭ほど、ますます社会から孤立し子育ては密室化し、一層、不適切な養育につながっていきます。社会は、子遣り社会から子育て監視社会へと変貌しはじめているのです。
こうした観点にたつとき、子ども虐待への対応は、子育ての監視社会から、地域社会で子どもとその保護者が自尊心と生きる存在価値を感じながら地域社会で暮らしていけることを可能とする包括的かつ統合的対策が必要なことは明らかです。地域共同体の役割に代わる適切な社会的包摂能力の眼差しをもった「新しい子育て家庭支援ネットワークの構築」が必要になってきたのです。またそのためには、予算措置を伴った法整備、子育て家庭支援対策の担い手の期待される市町村と児童相談所の役割分担と人材交流の促進、地域処遇、在宅支援対策としての学校・教育センター、子育て支援センター、医療機関における虐待事例へのケアやソーシャルワークの充実強化、都道府県をまたぐ要支援・要保護ケースの情報共有とケース移管の迅速化、社会養護を担っている里親や児童福祉施設職員へのサポートの充実など、こなすべき課題は山ほどあります。しかし、こうした課題をこなさない限り、児童福祉現場は、ますます野戦病院化し、心身の不調をきたしたり、燃え尽きる職員を現在以上に増やすことになると予測されます。地域処遇、在宅福祉を可能とする子ども家庭支援対策の充実化という出口戦略なき保護主義的対策の強化は児童福祉の荒廃をもたらすだけといえます。
子遣り文化という社会的包摂能力を持った社会とは、お互いがお互いの自立を助けあうことができる自立した関係であり、お互いの苦悩を共にしながら、相互支援的包摂関係を構築しあっているような「共創的支援社会」といえます。
どんな地域社会、どんな家庭に産まれても、子どもにとって生きがいをもてる社会こそが児童福祉、そして社会福祉の原点といえるのです。