感情(情)

自己意識の発達

西田幾多郎は、「感情は受働的であると云はれるのであるが、ゲーテが自己の生涯を詩化することに依って、その苦悩を脱したといふ様に、我々は情に依つて知を包容し、之を超越して自在となることができるのである。」(西田,1918)と指摘します。

知覚とか認知とは観察対象を持ち、対象を識別する行為といえます。ホロニカル心理学の概念を使っていい換えれば、自己と世界の出会いの直接体験を観察対象とし、事物の識別基準となるホロニカル主体(理)を内在化した外我による直接体験の分別が知覚とか認知といえます。それに対して感情は、内我による直接体験に直結した全体験であり、この全体験が外我の知覚や認知を包摂します。

ところが現代人は、理性・知性に担い手である外我が客観的なるものと考え、感情に揺れる内我を制御・コントロールできると思い込んでいます。しかしながら、本来、理性や知性の機能は、感情と結びついた直接体験を理解するために発達してきたと考えられます。それに対して感情は、理性や知性の働きに刺激されながら複雑な情緒を発達させてきたといえます。感情そのものはもともと主観的なものであり、理性や知性によって客観的な分析によってつまびらかにできるような対象ではなく、理性や知性による分析をも包摂し、理性や知性を越えた働きをもつものといえます。

自己にとっては、気分、感情、情緒などの「情」は、理性や知性による分析以上に、自己が確かに生きているという実存的感覚を自己にもたらし、自己を適切な自己に向かって統一しようとして自己組織化を図るときの極めて強力な動因力といえます。

自己は知性や理性に基づく苦悩も、「情」の意味を実感・自覚することができれば、苦悩を含み苦悩を超越し、自由自在になることができると考えられるのです。

西田は感情そのものに精神的統一作用を見ましたが、ホロニカル心理学では、一瞬・一瞬に変化する気分が、知性・理性の発達とともに、一瞬・一瞬の「気分」が複雑に入り交じった感情や情緒に自発自展していくと考えています。こうした歩みが自己意識の発達につながっていきます。

 

参考文献
西田幾多郎(1918).感情.in:西田幾多郎全集,第三卷;1950 .岩波書店.p 62.