自己が、自己と世界の出あいの不一致・一致の繰り返しの苦悩の中で、自己と世界の一致を求めて、適切な自己を自己組織化しながら生きようとするところに、生命としての自己の意志を認めることができます。しかしこの絶対的なる意志に対して、人間の我(現実主体)は、それを拒否し、それに逆らうとし、そこに我の意思を持つと考えられます。
こうして自己は、自己の意志と我の意思の対立による苦悩を自己の内に抱え込むことになります。
我の意思とは、自己と世界を変革させようとするところに働くといえるのです。
キリスト教的に意志と意思の確執を表現すれば、アダムが個の意識に目覚め、自らの意思によって生きようとするとき、自らを創造した神の意志に逆らって生きることになるため原罪意識を持たざるを得ないという理解ができます。
仏教的には、個が自力の意思によって救われようとしてもあまりに罪深き我では限界があり、仏の意志に自己を委ねるしかないという親鸞の他力本願思想につながるテーマと思われます。
しかしながら人間の場合、意志と意思の確執の中で、自己自身の存在が自己完結型の個の意思に基づく人間中心的な生き方だけでは充足せず、自己が自己自身を対象化し、自己自身を超越していく意志を貫いて生きることに意味があると目覚めていくと思われます。
自己は、自己自身を対象化し、対象化された自己を自己再帰的に超越していく存在といえるのです。まさにそこに人間性を見出すことができます。