“こころ”をどのように捉えるかは、心理学の違いだけではなく、人生観、世界観の差異となり、究極的には生き方の差異になります。
ホロニカル心理学では、今日の心理学が対象としている「心」の捉え方よりも、もっと広い概念として捉え直しています。山川草木悉皆成仏の考え方に近く、すべての出来事が“こころ”の働きによると考えています。
ここでちょっと思考実験をしてみましょう。感覚遮断実験です。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの人間の感覚に対する刺激を遮断するだけはなく、平衡感覚、内臓感覚、固有化感覚(運動感覚)など、もしあらゆる感覚を遮断した場合、果たして、人は、自己及び世界の存在を意識することができるのかといった思考上の実験をしてみるわけです。
仮説的には、あらゆる感覚を遮断されるということは、そこにはもはやこれまでのような観察主体と観察対象が区別された世界の体験とは異なる直接体験になると考えられます。少なくともすべての感覚を遮断された人には、通常のような意識活動とは異なる意識状態になると想定され、その体験は自己と世界のそれまでの境界が崩れ、無境界的なものか、チベットの死書にでもでてくるようなすべてが光のまばゆい世界になるとも想定されます。しかし、すべての感覚が遮断されたとはいえ、その人は確かに物理的には存在はしています。物理的にはかけがえなき個体として存在しながらもその人自身は、もはや自己と世界を区別するような意識状態にはなく、実感としては自己と世界の区分も無境界で、自己がそこにあるという意識も変容し、その人にとっては自己が有るともいえる、無いともいえる状態になるわけです。
そもそも石ころのひとつひとつが、それだけで他から区別できる固有の本質をもっていると考えるのは、人間の意識上での錯覚と考えられます。たとえ目の前の石ころひとつとて、他の一切の出来事や万物と関係なく石ころとして存在することはできません。物理学的に考えるならば、ひとつの石ころには、他のあらゆる者との物理学的相互作用があって、はじめてそこにあるといえます。したがって石ころとて、他の条件が急変したらどうなるかわかりません。高温のマグマの中に放り投げられたら、たちまちのうちに石ころとしての形態はなくなります。すべては、他の一切との縁起的関係働きがあって生成消滅を繰り返しており、なにひとつとっても、常に固有の本質をもったものはないといえるのです。石ころを構成する分子には電子と原子核があり、それらは粒子からなり、その粒子は、現代物理学の最先端では量子的な振る舞いによって構成されているということすらわかってきているのです。しかもその量子とは、非存在とも存在するともいえないような我々の通常の意識ではもはや捉えきれない性質があるとされ、観察した途端に、そこに粒子のような振る舞いをする働きを観測することができるというのです。
こうなると、すべての出来事や万物は、究極のミクロの次元から、すべての出来事との相互作用のうちにあり、その中から人間という自己が生成され、その高次な意識活動として世界を日頃感覚器官を通して受容し、自己及び世界を再構成しているといえます。
感覚遮断実験では、どうも全存在現出のすべてのゼロポイントに限りなく近くなり、幻覚や神秘体験を体験したり、禅やヨガの修練を積んだ人に出現するような神経生理学的反応が出てくることが知られています。
こうした実験や神秘体験の意味することまで考慮するとき、これまでの心理学は、高次な人間の表層的な意識活動に関与するものに、「心」の働きだけを見てきました。そして、さまざまな心の働きに対して、意識、無意識、思考、感情、意思・・・など名を与えてきたといえます。
しかしホロニカル心理学では、高次な意識活動を成立させる土台ともいえる、もっと意識の実存的な最奥かつ深部にも作用する働きに対しても、“こころ”の働きをみます。存在しては非存在ですが、作用として有るもののすべてのことを“こころ”と名付けているわけです。
内的世界が外的世界に包摂され、外的世界が内的世界に包摂されながら重々無尽の世界を不断に創り出しているところに働くものが、“こころ”と定義しているのです。しかしホロニカル心理学は、汎心論ではありません。“こころ”が創っているといっているわけではなく、山川草木悉皆成仏と、すべてに仏性をみるように、悉皆をなりたたせている働きのことを,“こころ”の働きを読み取っているのです。東洋では、古来、こうした自己を超えたところに“こころ”の働きを実感・自覚し大切にしてきたように思われます。こうした“こころ”の捉え方は、意識中心、人間中心の西洋の心理学とは、まったく異なっています。
ホロニカル心理学では、既存の心理学を大切にしつつも、“こころ”の捉え方をもっと東洋的な観点から脱統合する必要があると考えているわけです。