宗教

自己が世界と一体化することはの意識を失うことにほかなりません。自分を越えたものに呑み込まれるという不安から、世界に呑み込まれまいと必死に世界と対立するところに生きようとする我が、世界と我を創造した絶対的なる働きを裏切る罪深さと不安から、絶対的なる働きに赦しを乞うところに原罪意識が生まれ、キリスト教的信仰が生まれたと思われます。

しかし、東洋では、我の罪深さを抱いた自己を含み、すべてを慈悲深く包むところにむしろ仏教信仰が生まれたと思われます。

そして、無我となっても自己=世界をあるがままに受け入れるところに禅が生まれたと思われます。その意味では、禅はもはや宗教とはいえないのかも知れません。