
「AはAである」との判断について、ホロニカル心理学の立場から分析すると、次のようになります。「ある観察主体が、直接体験上のある出来事に対してAと判断した」となります。「A」を「犬」に置きかえます。すると、「犬」と判断したときとは、ある場所に生きる自己が体験した出来事に対して、自己(場所的自己)が自己言及的な観察主体となり、その場の出来事の中から、出来事の全体から識別される個物を抽出し、「犬」という概念のものが在ると判断したということになります。
ここで見落としがちになるのは、「犬」と識別される判断の刹那前には、必ず直接的な体験があるという点です。「犬」という判断は、直接的な体験に基づいて「犬」という言葉を人生の中で獲得した観察主体(我)が、「犬」という概念で識別し判断した厳密には事後的な経験といえます。判断する観察主体と判断される観察対象に分かれる前には、いまだ観察主体(我)と観察対象(出来事)の区別なき直接体験があります。
観察主体と観察対象の区別なき直接体験の瞬間とは、自己と世界の区別なき瞬間であり、ホロニカル心理学が「ホロニカル体験」と呼ぶ、「すべてがあるがまま」の直の原初的体験です。しかし、よほどの行を積んだ者でない限り、ホロニカル体験は破れ、観察主体と観察対象の関係は不一致になり、観察主体と観察対象の間に境界が生じてしまいます。
直接体験をめぐって観察主体と観察対象との間では、知らずのうちに不一致と一致が非連続的に連続していると考えられるのです。観察主体と観察対象の間の不一致と一致は、自己と世界の出あいの不一致と一致が非連続的に連続していることを意味します。
観察主体と観察対象が不一致になって「AがA」と識別判断されるためには、Aが識別判断される観察主体と観察対象が一致した観察前の自己と世界の関係が無境界のままの直接体験(Aではない)があるのです。
こうして、「AはAである」という判断には、「AはAであってAではない」という根本的矛盾を微妙に含んでいることになります。
西欧の心理学は、観察主体と観察対象が不一致となる瞬間を「意識」として捉え、主観と客観を区別することを前提とした意識(無意識を含む)の心理学の知見を集積してきました。それに対して東洋の“こころ”の捉え方は、観察主体が「無(無我)」となることを含め、意識だけでなく、無の意識(無意識ではない)の直接体験を徹底的に考究してきたように思われます。
なお、ホロニカル心理学は、観察主体と観察対象が不一致のときも一致のときも扱う新しい心理学の立場です。