その人固有の苦悩のもつ意味

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昨日の私と今日の私は、同じ私です。しかし、私の身体をつくる細胞や分子は、絶えず分解され、新しく創り直されています。物質としては変化し続けているにもかかわらず、私たちは一つの生命、一つの自己として生き続けています。

生物学者の福岡伸一は、この生命のあり方を「動的平衡」と呼びました。生命は、完成した形をそのまま守ることによって存続するのではありません。自らを絶えず壊しながら、新しく創り直していく。その危うい均衡のなかに、生命の本質があるというのです。

ホロニカル心理学では、根源的な「それ」の働きを、多を一へと統合する「IT(イット)」と、一を多へと開く「es(エス)」との絶対矛盾的な関係として捉えます。「IT」は、異なるものを関係づけ、一つの全体として結びます。「es」は、成立している全体をほどき、差異化し、多様なものへと開いていきます。しかし、両者は別々に働く二つの力ではありません。多様化がなければ、新たな統合は生まれません。統合がなければ、多様化はまとまりを失い、単なる解体へと向かいます。「IT」は「es」を必要とし、「es」もまた「IT」を必要としているのです。

この立場からすれば、生命とは、統合された状態でも、多様化した状態でもありません。統合しながら多様化し、多様化しながら新たに統合されていく、絶え間ない出来事です。福岡伸一の動的平衡論は、「IT」と「es」との相矛盾的な働きが、生命体の物質的な水準に立ち顕れた一つの現象としても理解できるように思われます。

ホロニカル心理学において、自己とは、世界から切り離されて存在する孤立した個体ではありません。自己と世界とは、あらかじめ別々に存在したうえで関係するのではなく、その関係のなかで、一瞬・一瞬、ともに立ち顕れます。自己は世界を自己のうちに包み、同時に世界に包まれながら存在しています。このような自己を、ホロニカル心理学では「場所的自己」と捉えます。

したがって、一人ひとりの存在は、世界から切り離された小さな部分ではありません。その人は、「生なる世界」が、その人にしかない仕方で自己を表現する、かけがえのない場所的存在なのです。その人固有の存在の意味とは、社会から何らかの役割を与えられていることでも、他者の役に立つ価値があることでもありません。その人が場所的自己として、身体、感情、言葉、生活史、他者との関係を通して、世界の多様性を、他の誰にも代わることのできない仕方で担い、生きる場所において必死に表現しようとしていること。そのこと自体に、すでに、その人固有の存在の意味があるといえるのです。

もし世界が、どこを切っても同じような金太郎アメのように、代替可能なものだけから成り立っているならば、そこに生きる一人ひとりを、かけがえのない存在とはいえないでしょう。しかし、実際には、それぞれが異なる存在として生きることによって、全一なる世界に潜在していた多様性が、現実のものとして立ち顕れていると考えられるのです。

しかし、その人が固有の存在として生き、世界の多様性をその人なりに表現しようとするとき、そこには矛盾が生まれます。自分の内側から生まれてくる願いと、周囲から求められることとの不一致。身体で感じていることと、言葉で表現できることとの不一致。過去から受け継いだものと、未来に向かって創造しようとするものとの不一致。他者とつながりたいという思いと、自分自身でありたいという思いとの不一致。私たちは、こうしたさまざまな不一致による矛盾を、それぞれに背負いながら生きています。

もちろん、苦悩には、病気、暴力、喪失、貧困など、さまざまな要因があります。そのすべてを「世界の多様性を表現しようとする矛盾」だけで説明することはできません。それでも、苦悩のなかには、その人に何かが欠けているためではなく、その人が固有の存在として世界を生き、自分なりに世界の多様性を表現しようとするところに生じる、自己と世界との摩擦もあるのではないでしょうか。

苦悩を美化したり、苦しみを我慢すべきものと考えたりすることはできません。しかし、苦悩を単なる欠陥や異常として外側から取り除こうとすれば、その苦悩を通して立ち顕れようとしていた、その人固有の存在の意味まで見失うことがあります。矛盾は、その人の存在に付着した不要なものとは限りません。それは、その人が「生なる世界」の多様な存在として、他の誰にも代われない仕方で世界を生きようとしていることの顕れでもあるのです。

フロイトは、生命と“こころ”の根底に、「エロス」と「死の欲動」という二つの働きを考えました。「エロス」は、生命を結び、維持し、より大きなまとまりをつくろうとします。一方、一般に「タナトス」とも呼ばれる死の欲動は、既成の結合をほどき、以前の状態へ戻ろうとする働きとして考えられました。死の欲動は、単純に「死にたいと望む気持ち」を意味するものではありません。自分を苦しめているにもかかわらず、同じ関係や行動を繰り返してしまうことなど、快楽だけでは説明できない不快な出来事の反復にも関わる概念です。

ただし、ホロニカル心理学では、「エロス」を「IT」、「死の欲動」を「es」と、そのまま対応させることはしません。「エロス」的な統合も、過剰になれば差異をのみ込み、その人固有の存在を硬直させることがあります。反対に、死の欲動による既成の統合の解体が、古い関係や生き方から自己を解き放ち、新たな自己と世界が生まれる契機になる場合もあります。統合することが、いつも生命的なのではありません。解体することが、いつも破壊的なのでもありません。生命の本質は、統合か解体か、生成か消滅か、そのいずれか一方にあるのではなく、相矛盾する両者が互いを否定しながら、同時に互いを成り立たせているところにあると考えられます。両者を排他的な二項としてではなく、相互に否定しながら相互に成立させる「絶対矛盾的自己同一」として捉えるところに、ホロニカル心理学の立場があります。そして、この矛盾が、一人ひとりの身体、言葉、他者との関係、生活史のなかで具体的に生きられるところに、その人固有の存在の意味が立ち顕れてくるのです。

精神科医・精神分析家のラカンは晩年、「サントーム」という概念を提起しました。この視点から考えると、一見不可解に見える習慣や反復、こだわりや症状も、その人にとっては、自己と世界との関係をかろうじて保つ、意味のある働きをもっていることになります。

もちろん、それによって生じている苦しさや危険を放置してよいということではありません。しかし、症状だけを外側から切り取ろうとすると、その症状が保っていた自己と世界との関係や、その人の生を支えてきた大切な意味や働きまで、一緒に失われてしまうことがあります。ここでいう「意味」とは、症状の奥に隠された正解を、支援者が解釈によって言い当てることではありません。その人が場所的自己として、どのような矛盾を背負い、どのような仕方で世界の多様性を表現しようとしているのか。その存在の仕方そのものに関わる、存在論的な意味です。

ラカンの概念をホロニカル心理学から捉え直すならば、サントームとは、「IT」と「es」、統合と多様化、生成と消滅との絶対矛盾的な働きが、その人の身体、言葉、他者との関係、生活史、そして偶発的な出来事を通して結ばれた、その人固有の生の意味を結び保つ「生の結び目」といえるでしょう。それは、その人固有の存在の意味が、身体、言葉、苦悩、反復、関係の交差するところに凝縮された、「新たな創造へと開かれた存在論的な凝縮点」として理解できるのではないでしょうか。

しかも、その凝縮点は固定されたものではありません。私たちは一瞬・一瞬、古い自己を過去へ送りながら、新たな自己と世界との関係を生成しています。サントームもまた、自己と世界とのあいだで絶えず結び直されていく、動的な凝縮点として理解できると思います。

その人固有の存在の意味に気づくとき、私のような支援者には、次のような問いが自ずと生まれてきます。
「この人の苦悩や生きづらさには、どのような意味や働きがあるのだろう」
「執拗に反復されるこの苦の出来事は、いったい何からこの人を守ってきたのだろう」
「この苦悩を通して、その人にしか表現できない、どのような世界が立ち顕れようとしているのだろう」
「その人固有の存在の意味を失わせずに、今より少し生きやすく、希望を抱ける生き方を、ともに創造できないだろうか」

心理社会的支援の目的は、症状を一方的に除去し、社会が望む形へとその人を統合することではありません。また、その人が背負っている矛盾を、支援者が外側から解決してあげることでもありません。被支援者と支援者がともに、その矛盾や苦悩がこれまでの生において果たしてきた役割を確かめながら、その人固有の存在が押し潰されることなく、世界の多様性をより生きやすい仕方で表現できる道を発見し、創造していくことにあると考えられます。支援とは、苦悩を通して立ち顕れている固有の存在の意味を、ともに未来へ向かって結び直していく、創造的な営みなのだと思います。

生命とは、個物として完成されるような、固定した「もの」ではありません。一人ひとりは、場所的自己として、「IT」と「es」、統合と多様化、生成と消滅との絶対矛盾を背負いながら、一瞬・一瞬、新たな自己と世界との関係を自己組織化し続けているのではないでしょうか。やがて、個体としての生命は死を迎えます。身体を構成していた物質は自然界の循環へ戻り、生命活動を支えていたエネルギーも、さまざまな形へと変換され、拡散していきます。

しかし、その人固有の存在の意味は、物質やエネルギーだけに還元されるものではありません。その人が他者とのあいだに生み出した関係、語った言葉、分かち合った時間、そして世界に生じさせた変化として、次の世界のなかに織り込まれていきます。

生命とは、生成が消滅に打ち勝って生き残る働きではありません。一瞬・一瞬、分解と再構成、破壊と創造を繰り返し、消滅を自らのうちに包み込みながら、新たな自己と世界を生成し続ける働きです。

一人ひとりの存在は、「生なる世界」の多様性が、他の誰にも代われない仕方で立ち顕れた、かけがえのない場所です。その人が背負っている矛盾や、そこから生じる苦悩のなかには、その人が固有の存在として世界を生き、世界の多様性を表現しようとするところから生まれるものもあります。

その矛盾を消し去るのではなく、その人固有の存在の意味として受けとめながら、今より少し生きやすい未来へと結び直していく。そこに、生命の創造性と、心理社会的支援の可能性があるのではないでしょうか。