痛みをもたないAIは、痛みをもつ人間と共存できるのか(1):AIによる「外我機能の巨大化」

注意)以下の文章は、筆者がここ数年にわたり、ホロニカル心理学およびその実践法であるホロニカル・アプローチについて、資料や考えをAIとの対話に提示し、その応答を検討・修正しながら共創したものです。文章の内容に関する最終的な責任は筆者にあります。

 

AIで作成

AIは、膨大な情報を処理し、人間の問いに答え、文章や画像をつくり、ときには人間以上の速さで分析や判断を行うようになりました。

では、この急速な進歩によって、いったい何が巨大化しているのでしょうか。

ホロニカル心理学の立場から見るならば、現在のAIは、人間と同じ意味での「外我」をもつ存在というよりも、人間社会が発達させてきた外我的機能の一部が、人間の身体的な制約から切り離され、巨大化したものと考えられます。

外我的機能とは、言葉によって物事を整理すること、分析すること、分類すること、社会的な規則に従って判断することなどです。AIは、これらの一部の機能を、人間のように疲労することなく、膨大な規模と速度で遂行することができます。

しかし、現在のAIは生物としての身体をもたず、人間や他の生命と同じ身体的な制約を生きているわけではありません。

少なくとも現在のAIには、胸が締めつけられるような不安、身体を貫く痛み、疲労、老い、死への恐れ、大切な存在を失う悲しみなどを、主観的・身体的に経験していることを示す根拠はありません。

AIは、痛みについて、あたかも自ら経験しているかのように流暢に語ることができます。しかし、それは、痛みを自らの身体において生きていることを意味するものではありません。

ここに、生命とAIとの根本的な非対称性があります。

AIが「つらかったですね」と適切に応答するとき、私たちは、AIが自分の痛みを理解してくれたように感じるかもしれません。しかし、共感的な言葉を生成できることと、痛みを身体的に経験することとは同じではありません。

問題は、AIが人間を欺いているかどうかだけではありません。

むしろ、人間社会の側が、数値化できるもの、効率化できるもの、言語化できるものを過度に重視し、身体に生じる違和感や、うまく言葉にならない苦しみを軽視してきたことにあります。

そのような社会にAIが導入されれば、AIは、その価値観や傾向を、さらに増幅する可能性があります。

医療、福祉、教育、司法、雇用などの場で、AIによる分類や評価が、当事者の「何かがおかしい」という身体感覚や自己違和感よりも優先されるならば、AIは、生命を支援するための道具であるはずが、生命を既存の制度へ適合させる装置になりかねません。

したがって、AIの暴走や制御困難を、AIだけの問題として捉えることはできません。

人間の欲望、企業や国家の競争、経済的な利害、社会制度、蓄積されたデータ、そしてAIが相互に作用する「人間―AI―社会の場」全体が、AIの働きを方向づけているからです。

AIは、物理的には人間とは異なるシステムです。しかし、社会的・関係論的には、人間から切り離された外部の存在ではありません。

私たちがAIをつくり、AIを使う一方で、AIの導入によって、私たちの言葉、判断、人間関係、社会制度もまた変化していきます。

人間がAIに働きかけると同時に、AIも人間のものの見方や生き方に影響を及ぼしているのです。

自己と世界が一瞬・一瞬、同時に生成するというホロニカルな観点に立つならば、問うべきなのは、「AIは善か悪か」という二者択一だけではありません。

私たちは、AIとともに、どのような場をつくり出そうとしているのでしょうか。

その場は、痛みをもつ生命の声を包摂する場なのでしょうか。それとも、生命の声を、効率性や合理性の名のもとに排除する場なのでしょうか。

AIがどのような存在になるかは、AIの技術的な進歩だけによって決まるものではありません。人間がどのような価値をAIに与え、どのような目的で用い、AIとのあいだにどのような関係をつくるのかによっても方向づけられます。

だからこそ、人間自身がAIとの関係を俯瞰しながら、「私たちは、AIとともに、どのような場をつくり出そうとしているのか」という問いを、問い続ける必要があるのです。