科学技術は、誰のために世界を変えるのか――客観性と主観性をつなぐ倫理

AIで作成

人間は、科学技術を利用して自然環境をつくり変えることによって、人類だけに都合のよい世界を構築できるのでしょうか。

この問いは、個人の利害を超え、多様な生命を含む万物との関係をめぐる倫理的な課題です。同時に、人間による世界への働きかけが、やがて人類自身の生存にも再帰的に跳ね返ってくるという問題でもあります。

地球温暖化をはじめとする環境問題に加え、急速に発展するAIが人間の制御を離れ、人類に危機をもたらすのではないかという懸念もあります。科学技術と人類の未来をめぐる問いは、遠い未来やSFの中だけの話ではなく、すでに私たちが向き合うべき切実な問題です。

ホロニカル心理学では、自己と世界を、互いに切り離された存在として捉えません。自己は世界に包まれながら、その世界を自己のうちにも包み込み、両者は相互に関係しながら生成変化していると考えています。

そのため、人類だけの都合を優先して世界をつくり変えることは、人類自身が生きる基盤を変容させることでもあります。人間を自然から切り離された存在とみなし、論理的・合理的な思考だけで世界を捉えようとする姿勢は、ホロニカル心理学の観点からは、外我が内我との対話軸を失い、一方的に優位となった状態(外我ばかりが肥大化した状態)として理解できます。

さらに、「人類にとって都合がよい」と一般化された変化が、すべての人に等しく利益をもたらすとは限りません。ある人々の便利さや豊かさが、別の地域に暮らす人々、多様な生命、あるいは将来世代の負担によって支えられていないか。その点まで視野に入れる必要があります。

だからこそ、私たちは、科学技術を「何のために、誰のために使うのか」を問い、その方向を見極め続けなければなりません。

その見極めには、内我と外我との間に対話軸が形成されることが重要です。外我は、科学的知識や社会的価値基準となるホロニカル主体(理)を内在化し、言語や論理によって世界を理解しようとします。

一方、内我は、自己と世界の出あいにおける不一致・一致を、身体感覚、情動、直感、違和感など、直接体験の非言語的な次元で直覚します。この両者の対話が、科学技術のあり方を問い直すうえで欠かせないのです。

科学は、主観的な要素を可能な限り排除し、再現可能な客観的事実を明らかにしようとします。この方法は、世界を理解し、科学技術の安全性や有効性を検証するうえで重要です。しかし、「客観的」であることが、そのまま「倫理的」であるとは限りません。

むしろ、人々の直接体験や主観性との照合を欠いた論理は、倫理的に十分であるとはいえないでしょう。

たとえ安全性が確率や数値によって合理的に説明されていたとしても、想定外の決定的な出来事が起こることへの不安を抱く人にとって、その不安は、現実に生じている切実な体験です。その不安を「科学的根拠がない」「確率が低い」という理由だけで退け、存在しないもののように扱うことは、倫理に反する可能性があります。

とりわけ、発生確率は低くても、一度起これば生命や環境、将来世代に回復困難な被害をもたらす出来事については、確率の低さだけを安全の根拠とすることはできません。科学的に予測できる危険だけでなく、何がまだ分かっていないのか、想定の限界はどこにあるのかについても、社会に開かれたかたちで検討する必要があります。

ただし、不安が存在するという理由だけで、科学的な検証を退ければよいということでもありません。主観的な不安を唯一の判断基準とすれば、別の立場にある人の体験や、科学的検証によって明らかになった事実を見失う可能性があります。

大切なのは、科学的な数値によって主観的な不安を封じることでも、主観的な不安によって科学的知見を否定することでもありません。客観的なデータと主観的な体験を対話させ、互いの見落としを問い直していくことです。

たとえば、科学技術によって暮らしが効率化し、便利になったとしても、その中で身体の疲れ、人とのつながりの希薄化、疎外感などが生じているなら、その違和感を「進歩についていけない個人の問題」として片づけるべきではありません。それは、科学技術の方向や使い方を問い直すための重要な手がかりでもあります。

科学的な数理体系は、世界を理解するための重要な力です。しかし、数理的に表現された世界が、具体的に生きられている世界のすべてではありません。危ういのは数理体系そのものではなく、そこに表れにくい苦悩や生命への影響を顧みず、自然や社会を人類の都合だけで操作しようとする姿勢です。

一方、直接体験における自己照合も、自分の実感だけで完結するものではありません。自分にとっての一致が、他者にとっては不一致となる可能性があります。自らの違和感を大切にすると同時に、自分には感じ取れない影響について、異なる立場の人々の体験に耳を傾け、科学的な検証結果にも目を向けることが必要です。

こうした内我と外我の対話、そして他者との対話を通して見極めたいのは、科学技術の利用が、自己と世界の出あいにおける一致を深め、自己と世界の双方が、より適切な方向へ自己組織化していくことを促しているかどうかです。

ここでいう一致とは、世界を人間の都合に合わせて従わせることではありません。不一致を示す声や現象を排除せず、それらとの出あいを通して、自己の側の知識や価値基準も問い直され、自己と世界の関係が新たに開かれていくことを意味します。

その際の自己照合の基準となるのは、一人ひとりが、多様化と統合化という相矛盾する働きのなかで、自己と世界のホロニカルな関係を深める方向に生きているかどうかです。

統合性とは、多様な存在を一つの価値基準に従属させることではありません。それぞれの固有性を保ちながら、相互に包み合い、互いの存在によって自己のあり方も問い直されていく関係として捉える必要があります。

その方向を具体的に確かめるには、多様な生命の生存条件が損なわれていないか、利益と負担が特定の人々に偏っていないか、将来世代が生きる可能性を閉ざしていないか、予期しない被害が生じたときに立ち止まり、修正できる仕組みがあるかを問い続けることが大切です。

これらは、一度答えを出せば終わる問いではありません。科学技術を導入した後も、その影響を確かめ、予期しなかった不一致が生じたときには、その声を排除せず、使い方や進む方向を修正していく必要があります。

科学技術を何のために使うのかという問いは、私たち人間が、多様な生命を含む世界と、どのような関係を生きていくのかという問いでもあるのです。