理性主義の影

社会・文化、国籍や宗教に頼らず、客観的で普遍的な合理的法則にしたがって冷静に判断していくことが、社会の歴史的発展や進歩のためには重要であるという価値観(ホロニカル主体=理)があります。西洋的な近代科学主義的思想などは、その代表例と考えられます。 理性を善とする啓蒙思想といえます。しかしこうした考え方は、本当に正しいといえるのでしょうか?

人は対話で激論となると、「もっと冷静に話せ」と、お互いに怒号を浴びせ合うものです。また一見冷静に対話をしていたかのように見えても、それはまったく表面的な形式上の出来事であり、腹のうちでは煮えくりかえっていることも多いものです。

また、客観的で普遍的で合理的な正しい法則にしたがって判断してると思い込んでいる人こそ、誤謬を含んだ独我論的な思い込みに盲目となります。「こっちは絶対正しいことを言っているのに、こいつは一体何を馬鹿げたことを言っているのだ!!」と、表面の冷静を装った仮面の下には憤怒が隠蔽されていることが多いものです。

その上、理性主義的な啓蒙思想には、感性豊かな人をどこか見下した態度が露出しています。それだけに、むしろ見下された態度を感じる相手の憤怒を引き起こします。そして理性主義の人は、自らは相手を挑発しておきながら、怒った相手を、感情的になったことで、徹底的に批判し、そうすることで、相手をますます激化させるものです。

感性的なるものは、個別的で、場所的で、民族的で、社会・文化的で、非言語的で、情緒的で、身体感覚的で、触覚的で、体性感覚的で、深層的なものです。それだけに感性的なるものにも価値を置く人たちは、理性優位な思想をグローバル・スタンダードとすることには強い抵抗感を抱くものです。特に、グローバル・スタンダードが外向的志向性が強い合理主義的に偏向すると、内向的志向性が強い非合理的主義的との関係の溝はますます拡大します。すると、お互いが相手を否認し、お互いに分裂・排除的になり、協調不可能な離反的関係になります。

現代社会は、もはや資本主義と共産主義による対立や、資本家と労働者の対立でもありません。むしろ理性主義をグローバル・スタンダードとし、かつ実際にて社会的地位・権力や富を独占する一部の人たちと、そうしたパラダイムに知らずの内に支配されて隷属しながら無力化(正当な怒りすら喪失)していく多くの市民との社会的格差の拡大が社会の影として明らかになってきた時代といえます。ただし、理性主義的なグローバル・スタンダードの影に気づき、疑問や不信を抱く人たちも増加してきています。