求道(1):ホロニカル・アプローチの行為との類似性

お遍路さん

実は、これまでホロニカル心理学に基づくホロニカル・アプローチの実践を的確に表現する言葉がなかなか見つかりませんでした。30年以上前は、「心理治療」「心理療法」と呼称していましたが、医学的治療と混同されることが多く、非医学的という意味を明確にしながら、これまでの意味の多義性を包含する形で、その後、心理学に基づく、「セラピー」「カウンセリング」としました。しかし、それでも内的世界ばかりを扱っているという誤解があり、その後、「心理相談」とし、さらに直近では、「心理社会的支援」としてきました。しかし、それでもしっくりこず、ホロニカル・アプローチによる行為を、もっと的確かつ簡略に表現する言葉を模索し続けています。

そんな流れの中、今回、まだまだ十二分に表現しきれているとまでは言い切れないものの、極めて近似的な概念が見つかりした。

「求道」です。

「求道」を「キュウドウ」と読むのか「クドウ」と仏語的に読むかは、読み手の自由です。

「求道心」と使われることがありますが、末尾の「心」は省略します。理由は、“こころ”が「求道」の働きそのものだと考えられるからです。

ホロニカル心理学でいう「求道」とは、人生の意味、幸せ、愛、真実、真理、悟り、真の自己、仏性、神、タオ・・・を求めることです。「求道」の希求が、“こころ”といえるのです。しかし、「求道」が「求道心」となって、「心」が何かを希求しだすと、忽ちのうちに自己と世界は分断され苦悩を創り出します。むしろ、希求する「心」自体が消え、「自己」が、「求道」そのものになる瞬間、自己と世界の合一の体験(ホロニカル体験)が突如として出現すると考えます。

人はそれぞれの場で、意識しようとしまいと、「求道」を余儀なくされます。

「求道」の結果、世間からある領域や分野で「達人」と言われる人がいます。しかし、たとえある道を極めて達人と呼ばれるレベルにある人にあっても、他の道で達人のように振る舞うことができるとは限りません。達人には、自己と世界の不一致の出来事に対して咄嗟に自己と世界の一致に向かって身をこなせる力があり、かつそれを可能とするような全総覧的な観照者がいるものです。したがって、達人レベルの人には、高次な観照者が樹立していても、すべての領域や分野で身をこなせるような達人は、ほとんどいないといえます。

むしろ、人は、それぞれ自分の人生の中で、何らかの達人レベルのものを少なからず持っているものです。しかしながら自覚なき達人がほとんどだということです。実は、ひとりの世間に知られ達人を産み出す背景には、大勢の無名の無自覚の達人が必ずその場にいるということです。達人は、大勢の無名の無自覚の達人が生きている場に刺激されて生まれ出てくるのです。無自覚の達人が生きている場を感じる人が、何かの領域での達人と呼ばれる人になっていくのです。

「求道」には、高い志をもった人が、地道で孤独な自己鍛錬の道をあえて覚悟をもって選択するような高尚なイメージが作り上げられてしまっていますが、実は、本来、誰にも開かれている筈です。

ホロニカル・アプローチは、「求道を支援する方法」ではなく、「求道を共にする方法」であり、「誰もが求道を共にするための場作り」を含むものと考えているのです。