相談意欲も動機もなく、支援に抵抗感を抱く人への対応

心理学が、自己実現、自己覚醒や自己修正など自己変容ばかりに焦点化してしまうと、すべては自己責任のもとにあるというニュアンスを含み、他者や社会のもつ問題が不問になる危険性があります。他者や社会に変化を期待できない時こそ、「相手や社会はそう簡単には変わらないよ。だからまずはあなた自身が変わるしかないよ」というトーンで他律的に定義される自己責任論に追い詰められてしまうわけです。

特に心理社会的支援において最も重要なテーマは、自己変容する意思すら失い、自己及び世界(他者を含む)に信頼がおけず、憤怒するか無気力になってしまっている人たちを前にして、一体、何ができるか、何が変容を引き起こすことができるかを明らかにすることです。少なくともそうした人に対する支援においては、何かを施してあげればすむというような傍観的な姿勢では対応できず、救済者幻想に終わることは明らかです。

貧困、孤立、トラウマ、病気、障害など、多層多次元にわたる重複的問題を抱え、自己及び世界に不信感を抱く人たちを前にして、一方的に相手に変化を求めるだけではむしろ一層不信感を強めるだけです。また、支援者自身がいくら資質向上のための精進に努めたり、自らを支える力を身につけようと努力しても、被支援者が実際によき方向に少しでも変容しない限り、支援者もいずれ燃え尽き、場合によっては心身の不調すらきたします。

相談意欲も動機もなく、支援に抵抗感を抱く人へのよりよき対応への問いは、上手くいかない今の被支援者と支援者の関係自体の見直しを支援者に迫ることになります。ポイントは、これまでの関係性自体の変容に焦点化することにあるのです。お互いがそれまでの閉じた自他関係を超える体験が必要になるのです。そのためには自他関係を含む場自体の変容が必要になります。自他のみならず、すべてを包摂する場自体の変容が必要となるのです。場抜きの自他変容論では、被支援者も支援者も変容に限界があります。

自己変容は、生(いのち)を育むの創造的エネルギが自己に備給された時にはじめて可能となります。被支援者と支援者が共に生きづらさを共有し、刻々変化する場の中にあって、何かを一致することを感じた創造的瞬間に、新しい自他関係が創発されるのです。被支援者と支援者の双方が、場の雰囲気に自己を開いたり閉じたりしながら、両者が一致する方向に向かって、より適切な自己を自己組織化できた瞬間、被支援者と支援者が共に変容するのです。

こうした観点から困難事例が変容した幾多の事例を冷静に振り返る時、そこにはひとつの共通した出来事があったことに気づきます。それは被支援者と支援者の関係が、指導・支援・治療といった関係を超えて、ただひたすら喜怒哀楽を一緒にし、共に愉快でいい時を過ごした体験を契機に、明らかにその後の両者の関係が変容し、その後、共に「また会いたくなる関係」に変化しているという事実です。

誕生会、クリスマス会、ひな祭り、宿泊体験、室内遊び、運動やスポーツ、買い物、料理、掃除、散歩、同行、調べものなど、ごくたわいもないことを、共にしたあと、そうした小さな意味のある変容がやがて大きな変容の源になっているという事実です。これらのことは、面接室を中心として専門化してきた専門家の間では、多重関係による被支援者の過度な依存を創りやすく、禁忌とされてきたものばかりです。専門家の間では、あらかじめ目的と計画を明確にし、一定の手続きによって行われるプログラム以外は専門性が低いとして忌避してきた歴史があるのです。確かに心理社会的支援において、一定の「限界枠」をもつことは大切です。しかし、既存の枠がむしろ自由な活動の拘束になる時には、「新たな枠」が見定まるまで、「既存の枠」を壊す勇気が支援者に求められるていると思われます。

ただ確かなことは、救いを断念している人が、よき体験を体得できるような心理社会的支援の場作りが必要ということです。