時間

日の出

読書に夢中になったり、音楽に聞き入ったり、景色に見とれている時などには、私が読んでいるとか、聞いているとか、見ているという、私の意識は消えており、私というものは、直接体験そのものと渾然一体となっています。

しかしながら、ふと我に返って、それらの出来事を振り返った瞬間、それらの出来事は、私の過去の出来事として想起され意識化されます。ところが過去の想起や意識化されるといっても、当然のこととして過去の出来事をそのまま想起したり意識化することなど不可能です。出来事としては、過去の余韻や残滓が「モヤッとした感覚」を随伴してあるだけです。その曖昧な感覚を手がかりに、いろいろと記憶を再現するということが出来るだけであり、その時には、すでに過去の出来事は、今によって再構成された物語になっており、過去の出来事そのものを忠実に再現することなど不可能です。

想起する時には、既に過去は、今・この瞬間にはどこにもなく、あるのは過去の儚い記憶を含む、今・この瞬間の感覚しか実際にはないのです。過去は、再構成的に理解されるものといえるのです。それだけに、過去を含む現在を、いかに未来に向かって切り開くかによって、人生の歩み方が変わるといえるのです。

時間感覚というものは不思議なものです。あれほど長く感じていた苦痛の時でも、それが過ぎて振り返る時には、小さなの塊のようになってしまっているのです。

日本人は、こうした時間感覚にとても鋭敏で、人生を儚い夢のように感じてきたように思われます。