超越

物事を分別することを一切やめて、ひたすら非思量の絶対の世界に入ることを、人によっては「超越」といいます。神秘主義的な匂いのする言葉であり、精神世界に関心のある人の間でよく使用されます。

人間は、動植物のように非思慮の世界に生きていることを忘れた途端、むしろ我(現実主体)による差別、対立ばかりが意識される苦悩の世界に陥ることになるというわけです。聖人たちが、ずっと唱え続けてきたことでもあります。

超越を、ホロニカル心理学の基本理論のひとつであるABCモデルで考察すると、次のようになります。

超越は、自己と世界が不一致となっている出来事に視野狭窄的になっているA点を、自己と世界が一致するホロニカル体験であるB点にすることではありません。また、A点とB点を何度も行ったり・来たりしているうちに、A点とB点が相矛盾しながら実は同一にあることに気づく固定点としてのC点を樹立することでもありません。

すべての出来事が変化していることに目醒め、その場で起きるすべての出来事を極小の無限の点から極大の無限の球の立場などから自由無礙に俯瞰することが可能になる次元が超越と考えられます。そこには観察する主体と観察する対象の関係のすべて超えられてしまっています。

超越においては、陰は陽に転じ、陽も陰に転じ、憎は愛に転じ、愛は憎に転じるように、憤怒は慈悲に転じ、慈悲は憤怒に転じます。すなわち、両者は不可分一体であり、“こころ”のありよう一つで変化することに覚醒してしまった状態が、超越と呼ばれている境位と考えられます。

私たちは、ホロニカル体験時に、すべてが一即多、多即一にあることを超越段階にもっとも近い観察主体(C点)から垣間見ることがありますが、すぐにA点とB点に引き裂かれてしまいます。超越を維持することはなかなか困難といえるのです。

ただし、その繰り返しの中で、次第に自己を含むすべての“こころ”の内外の出来事を総覧的に観照する「IT(それ)」の存在に、目覚めていくことは誰にでも可能と考えられます。超越体験を、なんと呼ぶかは、別の次元の問題として、超越体験を非科学的といって簡単に批判するのでもなく、かといって安易に超越を唱道するのでもなく、一考するだけの価値はあると思われます。

人生は、必ず「死」に至いたります。この現実を直視する時、「宗教的体験」「神秘的体験」としても語られ続けてきた境位について、考えみるのもいいかもしれません。