生きることにぎりぎりの人から学ぶ

木彫りの里(八日町通り)

ホームレスの人や長期に引きこもる人が、治療、労働など、なんらかの条件を受け入れることを前提として支援を受けられるような対応では、むしろ上手くいきません。むしろ支援を拒否しない限り、本人が望む場所で最低生活が共助・公助によって保障されるような社会包摂型支援システムを構築する必要があるのです。生き残るだけでも精一杯の人々に対して、さらに自助努力を求める社会は、共助の精神を弱体化させ、公助機能の不全を許容してしまう危険な社会といえます。

日々、ぎりぎりのところで生きている人たちにとっては、公助・共助精神の豊かな社会に包まれる時、人生に絶望しかけていたとしても、人は自己および世界に対する信頼を回復し、再度生きる意欲を持つことができることは、多くの事例ですでに明らかになっています。またこうした社会が財政的に最も効率的な社会福祉制度を確立すると期待されるのです。

今日のように当事者に専門家のところにまで出向くことを強いるような支援では、限定的な支援にしかなり得ません。現行の支援システムの多くは、専門家中心の効率性を高めることを前提にしたものであり、専門性の資質向上と整備・維持のために、社会はとても高いコスト負担を強いられているのです。しかしながら人生の孤立の川をわたりかけている当事者にとっては、専門性の有無に関係なく、当事者が望む場所において実感・自覚できる継続的支援が、もっとも自己及び世界への信頼回復や信頼関係の樹立につながるのです。

地縁血縁を中心とした地域共同体的紐帯が崩壊しつつある現代社会においては、当事者を中心とした地縁血縁に替わる新たな社会的ネットワーキングが必要と考えられるのです。それは自ずと当事者の生きる場が、より適切な生きやすい居場所となることを目指すことになります。しかも、その取り組みが、ただ単に当事者ばかりではなく支援者自身にとってもとても生きがいのある場所作りにならなければ活動は長く定着することにはなりません。そのためには、ある当事者の抱える苦悩を、その人だけの問題とするのではなく、誰しもがいつ遭遇することになるかわからない共有可能な物語として理解する姿勢が大切になります。人には、他人の痛みに自らも痛み、そしてその痛みからの救済を共に求めるという共同作業が必要なのです。ある人の苦悩を他人事として切り離す人は、自ら切り離した苦悩の影に一生おびえ続けることになります。

苦悩を共にし、生き辛さを少しでも生き易くすることを共に模索するという身近な一次支援体制が成立しているところでは、専門家による二次的支援も効果をもたらします。一次支援体制なきところで、当事者をただ専門家のところに送り込もうとする社会は、専門家や支援機関ばかりを増やし、結局は異なる他の専門家や他機関へのたらい回しを助長してしまい、結果的に、適切な変容が見込めないばかりか、コストばかりかかる社会を生み出しているといえるのです。