一に非ず異に非ず

ホロニカル心理学では、時々刻々変容する自己と世界の不一致・一致の出あいの直接体験が、唯一実在するものと考えています。しかしながら、厳密には、直接体験とは、内我による直覚(推論や考察によらず事物の本質をただちに知覚すること)や、外我による認識(事物の本質や意義を理解すること)以前の主客未分化な自己と世界の出あいの出来事のことを意味しています。直覚したり、認識する直前の直接体験こそが、実在するものと考えられるのです。

しかし、ここで矛盾が起きます。直覚以前や認識以前の直接体験が実在するといいながら、それを正確に語ることができないという矛盾です。語るためには、直接体験を観察対象とする必要があります。しかも直接体験を直覚したり、認識するためには、必ず、直覚したり認識するもの、すなわち観察主体が必要になります。結局、実在する直接体験を証明するためには、なんらかの意識が主体となって、直接体験を観察対象として直覚したり、認識するというプロセスが必要になってしまいます。しかしそれでは、なんらかの意識が直覚し認識しているものが、果たして直覚前・認識前の直接体験と本当に同じであるかどうかわからないということになってしまうのです。実在する直接体験を主体が直覚し認識しているのか、主体が直覚し認識する直接体験が実在するのか・・・さて、どうなっているのかと際限のない疑問が起きてしまうのです。

直接体験をそのまま直覚したり認識しようとした途端、そこに直覚や認識する主体が生起し、直接体験と主体の間に断絶が起きてしまいます。観察する主体と観察される対象との間に断絶があるということは、直接体験そのものの実在性を、主体が完全に直覚したり認識するということできないということを意味します。こうして、私たちは、真に実在するものの証明をめぐって自己矛盾を抱え込んでいるわけです。

東洋の思想では、このパラドックスを抜けだすために、「無心」を徹底的に重んじ、禅宗では、悟りを得るためには「不立文字」による体験的修行を重んじたと考えられます。

観察主体と観察対象や、主観と客観をめぐる矛盾に関して、ホロニカル心理学では、次のように考えます。自己と世界の時々刻々の不一致・一致の出会いの直接体験を統一するものが主観的なるもの(観察主体)となり、統一される対象が客観的なるもの(観察対象)となると考えます。この捉え方に立脚すれば、主観と客観の関係は、本来、同じ出来事に対する表裏一体の関係にあり、主観即客観、客観即主観の関係にあると考えられるのです。しかし、意識や思惟の上では、どうしても主観と客観があたかも対立するかのようになるため、どうしても主観と客観が双面的・背反的に展開することになってしまうと考えられるのです。

重要なことは、普段、私たちが思っているように、主観的なるものと客観的なるものは、二元論的に別々に展開してはいないということです。主観的なるもの(精神・心・意識)があって、客観なるもの(物質・身体・存在)が認識されているのでもなければ、客観的なるもの(物質・身体・存在)があって、主観的なるもの(精神・心・意識)が生まれているのでもないということです。主観と客観は、自己矛盾しながら同一にある関係と考えられるのです。

主観的なるものと客観的なるものは、二面性をもったものとして全一の関係にあり、「一に非ず異に非ず」の関係にあると考えられるのです。