テトラレンマの論理(1):観察主体と観察対象との関係から考える

西洋の哲学でいう思惟の三原則といわれる形式論理学の原理があります。「AはAである」(同一律)、「Aかつ非Aでない」(矛盾律)、「Aまたは非A」(排中律)と表現される法則のことです。

こうした論理に対して、テトラレンマといわれる論理があります。東洋、特に仏教の、空の論理、四句分別、四種法界、四料簡によって示されます。「Aである」「Aでない」「Aであることもなく、Aでないこともない」「Aであることもあり、Aでないこともある」となります。空の論理でいえば、「一切は空である」「一切は空でない」「一切は空であることもなく、空でないこともない」「一切は空であることもあり、空でないこともある」となります。

ホロニカル心理学的では、思惟の三原則は、観察主体が観察対象が主客に分離された時の論理であり、観察主体の立場は不問にして、観察対象を客観的な存在として対象化した時の対象論理と考えられます。それに対して、テトラレンマは、主客分離時の論理とともに主客合一の時の論理も含んでいると考えられます。主客合一とは、観察主体と観察対象の区別が無境界となっている時の体得的な論理を含むと考えられるのです。「Aであることもなく、Aでないこともない」「Aであることもあり、Aでないこともある」が、これにあたります。

ホロニカル心理学では、観察主体と観察対象の関係の論理が異なると、自己も世界の捉え方も異なってくると考えています。観察主体と観察対象が主客に分離している時は、自己と世界(万物)の関係も対立し、観察主体と観察対象が合一の時には、自己と世界が同一にあると実感・自覚されると考えられるのです。西田幾多郎は禅的体験の体認を通じて、このことを哲学的に「絶対矛盾的自己同一」と概念化したと考えられます。