共鳴・共振しあう個性と個性による即興的な共創劇へ

ある場所に生きる自己が身体的自己の同調性や共鳴性によって、その場所に生きるみんなの“こころ”が一つになることができます。頭より先に身体的自己が同期的に動きだすのです。みんなが踊り、歌い、笑う、お祭り騒ぎのようなものです。個性が個性のままでありながら、一つのの“こころ”を共創しだすのです。

この時、脳が人や“こころ”を動かしているというより、脳が、場所のもつ“こころ”の働きに共鳴・共振することによって、脳自身が、動かされ、“こころ”を動かすといったのが実感です。あくまで共時的同期的現象が起きるのです。きっと、人間の脳は共鳴・共振装置であり、生命が創りだした創造的な能力を持った精密装置なのでしょう。ミラー・ニューロンというのも、そんな脳の機能を代表する仕組みなのでしょう。

脳が“こころ”を創るのではなく、“こころ”の働きが、脳活動を支えているのです。“こころ”は、脳の神経生理学的な反応の一元論的に還元できるという考えには、何か実感と異なる感覚がいつもあります。

自己は、場所的存在です。ある場所に生きる存在が自己です。そうした場所的自己が、場所のいろいろな魑魅魍魎を含む秩序から無秩序に至る場所そのものを、場所的自己自身に映しています。そして場所的“こころ”を映された場所的自己は、その自己自身を通して,生きるために生きる場所に対して、何かを表現しようとします。そこに個性が必ず働くと考えられます。

個性とは、場所に生きるという存在そのものから湧き上がるものであり、そうした声であり、身体であり、表現といえます。考え出された個性とか、強制的に磨きあげられたところには、真の個性など育まれるとは思えません。湧き上がってくるところに、ごく自然に個性が形作られるのです。それが、かけがえのない人生を生きることだと思われます。

生きる場所は、良いも悪いも含め、すべての苦楽を生み出すを豊饒性を持っています。その場所の豊穣性の中から、場所的自己が個性的に何かを表現する者として、そこに個性的存在としての命が刻々形成されていると考えられるのです。

場所への同調を求めるところには個性は形成されません。それは、たとえ個性を求める場所であっても、誰かが強要するところには真の個性は育まれないといえるのです。

そもそも協調性自体は、最初から求めるものとしてあるのではなく、お互いが自ずと共振し共鳴し合うところに自ずとハーモニーが出来て、一つの音楽やダンスのような協調性が生まれてくるものなのです。