「見るもの」は、「見られるもの」でもある

ホロニカル心理学では、観察主体を観察対象とする究極の絶対的観察主体となるものを「IT(それ)」としています。

観察対象となる一瞬・一瞬自己と世界の出会いの直接体験を、無我となって何も評価したり判断することなく、ただひたすら直接体験の究極まで遡及していくと、忘我脱魂のあるがままの世界となります。

このとき、創造的に自己組織化している世界が、創造的世界の一要素でもある無となった我を通して、創造的世界自身を見ている状態といえます。

こうして、ホロニカル心理学では、究極における「究極の見るものであるIT(それ)」と「究極の見られるもの世界」とは、実は、同じものについての表裏を意味し、絶対に相矛盾しながら同一にある関係と捉えています。

観察主体しての自己を対象化しながら観察主体を無限の球に向かって拡大し続けていく時、究極的な絶対的観察主体は、世界そのもののともいえる「IT(それ)」となり、逆に観察対象としての自己と世界の出会いを一瞬・一瞬の出会いの直接体験の究極まで遡っても究極的には、世界そのものになると捉えているわけです。

究極においては、「見るもの」と「見られるもの」が合一すると考えられるのです。観察主体としての自己を対象化しながら無限の球に向かって拡大し続けていくとき、究極的な絶対的観察主体は、世界そのものである「IT(それ)」となり、逆に観察対象としての自己と世界の出会いを一瞬・一瞬の出会いの直接体験の究極まで遡っても究極的には世界そのものになると捉えているわけです。